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ヨーロッパ諸国(1914年)
  君主制 (22)
  共和制 (4)
ヨーロッパ諸国(1930年)
  君主制 (20)
  共和制 (15)
ヨーロッパ諸国(2015年)
  君主制 (12)
  共和制 (32)

君主制の廃止(くんしゅせいのはいし)は、国家などの政体として君主制を廃止する事。君主が存在しない、ないし君主を廃止した制度は共和制、国は共和国と呼ばれる。

その思想や議論は君主制廃止論(くんしゅせいはいしろん)または共和主義と呼ばれる。

目次

概説編集

君主制から他の政体への移行は歴史の初期より記録されており、革命クーデター戦争、体制変更などにより君主が退位した場合などがある。

紀元前753年迄に、古代ギリシャアテナイでは王制が打倒され、貴族制(寡頭制)を経て民主政(民主制)が採用された。後の古代ローマでは、紀元前509年に王政が打倒されたが、当時は衆愚政治を意味する「民主制」ではなく「共和制」を名乗った(共和制ローマ)。なお後のいわゆる帝政ローマも形式上は共和制のままである。

7世紀以降、主にヨーロッパでは都市国家自由都市を中心に君主制を廃止した、ヴェネツィア共和国フィレンツェ共和国ジェノヴァ共和国ネーデルラント連邦共和国などが存在した。

17世紀以降、ヨーロッパを中心に啓蒙思想自由主義民主主義平等主義や、更には民族主義が普及し、国家統合の中心は従来の君主から国民国家に転換した。イギリスでは清教徒革命で王政廃止、続く名誉革命では王政復活後の王権制限が制度化された(マグナ・カルタ立憲君主制)。18世紀のアメリカ独立革命では大統領国家元首とする共和国が北米にアメリカ合衆国として成立し、フランス革命では王政廃止され共和国が誕生した(1958年以降、第五共和政)。

20世紀は二度の世界大戦やアジア・アフリカなどでの植民地独立運動の影響もあり、多くの諸国で君主制が廃止され、多数の共和国が誕生した。1912年、アジア初の共和国である中華民国(→現在の中華人民共和国)が成立した。1917年、ロシア革命により帝政廃止され世界初の社会主義共和国であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が成立した(後にソビエト連邦を構成→現在のロシア連邦)。第一次世界大戦後は敗戦国となった中央同盟国ドイツ帝国(→ヴァイマル共和政ナチス・ドイツ東ドイツ西ドイツドイツ連邦共和国)、オーストリア=ハンガリー帝国(→第一共和国オーストリア共和国、→ハンガリー人民共和国ハンガリー王国)、オスマン帝国(→トルコ共和国)などが崩壊し共和国となった。

第二次世界大戦後は枢軸国側のイタリア王国(→イタリア共和国)、ルーマニア王国(→ルーマニア社会主義共和国ルーマニア)、ハンガリー王国(→ハンガリー第二共和国ハンガリー第三共和国)、ブルガリア王国(→ブルガリア人民共和国ブルガリア共和国)などが崩壊し共和国となった。また1922年にアイルランド、1947年にインドイギリス帝国から独立し、共和国となった。1950年代以降、アラブ民族主義の影響もありエジプトリビアチュニジアなどでクーデターにより王政廃止され共和国となった。1978年、イラン革命により王政廃止されイスラム共和制が成立した。なお第二次世界大戦後の日本が君主国かどうかは議論がある(象徴天皇制#議論を参照)。

共和制の多くの国は、民主主義人民主権平等主義)を標榜している。他方、日本やイギリスなど現在の君主制の大半の国は、立憲君主制による実質的な民主主義(「君臨すれども統治せず」、議会主義議院内閣制など)を標榜している。しかしサウジアラビアなどの一部の君主国では君主に強大な権限が与えられている。なお共和国でも、アメリカやフランスは大統領の権限が強く、ドイツ連邦共和国イタリア共和国などは議院内閣制の下で権限を有さない名誉職的な大統領を設けている。

君主制が廃止された国編集

フランス(フランス革命、1789年)編集

フランスでは、ルイ14世からルイ16世まで、王族によって放漫な財政、膨大な無駄遣いなどが行われていた。増税を行おうとするルイ16世に対してまず1787年貴族らが抵抗して擾乱が起き、1789年からは農民・一般庶民も含めてフランスの全ての階層が関与する本格的な革命(フランス革命)となり、自国の運営の責任もとらず卑怯にも外国に逃亡しようとする王族らをフランス国民は捕らえ、裁判にかけ処刑することに成功。政治体制は絶対王政から立憲王政へ、さらには共和制へと移り変わった(ブルボン朝フランス第一共和政)。フランス革命は、「(世界的な)近代化のはじまり」ともされ、世界各国での近代民主主義の原型ともなった。また、フランス王政とアンシャン・レジーム(=旧体制)が崩壊したことで、封建的特権が撤廃されて、近代的な所有権が確立された。次に1794年テルミドール反動を経て退潮へと向かい、ナポレオン・ボナパルトの登場と1799年のクーデターおよびナポレオンによる「帝政」樹立に至るものの、その後それなりの経緯はあるものの、1958年以降に第五共和政が敷かれる現代のフランスは長らく共和制で安定している。

メキシコ編集

メキシコは1821年に独立した際にはメキシコ帝国として独立したが、1823年に皇帝アグスティン1世が失脚し、共和制に移行した。その後フランスメキシコ出兵によって1864年にマクシミリアーノ1世が皇帝となったが、1867年にマクシミリアーノはベニート・フアレス大統領によって処刑され、メキシコ帝国は滅亡した。

ハイチ編集

ハイチでは独立後すぐにジャン=ジャック・デサリーヌが皇帝となり、ハイチ帝国 (1804年-1806年)が成立したが、ジャック1世は1806年に暗殺された。その後、ハイチは北部のハイチ王国と南部のハイチ共和国に別れた後に統一された共和国となったが、1849年にフォースタン=エリ・スールークが皇帝となり、ハイチ帝国 (1849年-1859年)が建国された。ハイチ帝国は1859年に滅亡した。

ブラジル編集

ブラジルでは1889年に軍部のクーデターによってブラジル帝国が崩壊し、ブラジル合衆国が成立した。

ポルトガル編集

ブラガンサ朝下の首相ジョアン・フランコは退任・亡命した。1910年10月、共和主義者による大規模なデモ。テージョ川河口に停泊する軍艦の反乱の鎮圧を軍部が拒否し、リスボン周辺を占拠。同月4日、軍艦2隻が王宮への砲撃、その結果 マヌエル2世と王族はイギリスへ亡命。10月5日、共和国臨時政府がテオフィロ・ブラガを大統領として発足。

ロシア (ロシア革命)編集

ロシアではロシア革命によって君主制は廃止された。(ロシア帝国ソビエト連邦ロシア連邦

専制的君主制によって民衆が苦痛な生活を強いられていたロシアでは、第一世界大戦中の1917年2月23日、ペトログラードのヴィボルグ地区の女性労働者らがストライキを行い、デモを行い、食糧不足を訴え、「パンをよこせ」という要求をつきつけた。他の労働者らもこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がり、要求内容も食糧のことだけでなく、「戦争反対」や「専制打倒」が掲げられるようになった。皇帝ニコライ2世は、自らの軍にデモやストライキの鎮圧を命じたが、鎮圧に向かった兵士が次々に皇帝に対して反乱を起こして労働者側についた。2月27日、労働者らや兵士らはメンシェヴィキの呼びかけに応じて「ペトログラード・ソヴィエト」を結成。メンシェヴィキのチヘイゼが議長に選ばれ、同日にドゥーマの議員が臨時委員会をつくって新政府の設立へと動き、結果、ニコライ2世は退位へと追い込まれ、彼の家族もろとも処刑され、ロマノフ朝は崩壊した。

ソ連崩壊後、2008年10月1日、ロシア最高裁判所にて「最後の皇帝ニコライ2世一家は根拠なしに迫害された」として名誉回復の裁定が下された。ロマノフ家事務局代表は「90年前の犯罪が指弾されることは重要」として、この裁定を歓迎した。

ユーゴスラビア編集

ユーゴスラビアでは第二次世界大戦中に国王のペータル2世がイギリスに亡命し、亡命中にチトー率いる共産主義パルチザンがドイツから全土を解放したため、戦後の1945年12月にユーゴスラビア連邦人民共和国が誕生した。

アルバニア編集

アルバニアでは第二次世界大戦中に国王のゾグー1世がエジプトに亡命し、亡命中にエンヴェル・ホッジャ率いる共産主義パルチザンソ連軍が全土を解放したため、戦後の1946年にアルバニア人民共和国が誕生した。

イタリア編集

第二次世界大戦後の1946年に、サヴォイア家ムッソリーニ独裁を許した責任を問われ、僅差であったが、国民投票で王政廃止が決まり、ウンベルト2世はポルトガルへ亡命した。その後、イタリア共和国憲法でサヴォイア王家直系男子のイタリア再入国禁止が決まり、2002年の憲法改正を経て、2003年までウンベルト2世の息子ヴィットーリオ・エマヌエーレ元王太子はイタリアへ帰国することができなかった。

エジプト編集

エジプトでは1952年にガマール・アブドゥン=ナーセルら青年将校によるクーデターが起こり、1953年に王制が廃止となった(エジプト革命)。

チュニジア編集

チュニジアでは1956年に独立した後、1957年に首相のハビーブ・ブルギーバフサイン朝の国王を廃止し、大統領となった。

イラク編集

イラクイギリスの政治的思惑により、ハーシム家による王国として独立した。しかし、実態は英国による保護国であり、またハーシム家はイラクに所縁の無い外部の人間であったため、イラク人からの支持はほとんど無かった。

1958年に、反英・反王制を掲げるイラク軍のクーデターによって王族が虐殺され、王制が廃止された。その後の軍事政権バアス党政権、サッダーム・フセインによる個人独裁は、中東で最も独裁的だとされていたが、フセイン政権崩壊後一転し、イラクは民主的な選挙の実施などから、アラビア半島諸国と比較して民主主義が進んでいるという見方があり、共和制のメリットの一例と言える。しかしバアス党時代から名目上は共和制が敷かれており、選挙などにまつわる政治・民族集団どうしのテロなども目立って増加している現在、“民主的な”共和制を保持できるかは今後の動向にかかっている。

ルワンダ編集

ルワンダでは独立直前の1961年に国民投票によってルワンダ王国は共和制に移行した。

イエメン編集

イエメンでは1962年にイエメン王国が崩壊し、イエメン・アラブ共和国となったが、その後も1970年まで北イエメン内戦が続いた。

ザンジバル編集

ザンジバルでは1964年にザンジバル革命が起き、ザンジバル王国は滅亡し、ザンジバル人民共和国が成立した。その後ザンジバルは大陸側のタンガニーカと合体し、タンザニアとなった。

モルディブ編集

モルディブは、1965年、イギリスの植民地から独立し、1968年、国民投票によりスルタン制を廃止し共和制に移行した。

リビア編集

1969年、リビア国王イドリース1世が病気療養でトルコに滞在中に、カダフィと同志の将校たちによるクーデターが起こり、王制が廃止となった。

アフガニスタン編集

1973年、アフガニスタン国王ザーヒル・シャーが外病気療養のためローマに滞在中に軍部のクーデターが起こり、王制が廃止となった。1996年、ターリバーン首長(アミール・アル=ムウミニーン)ムハンマド・オマルを元首とする君主制を目指し「アフガニスタン・イスラム首長国」と国名を変更したが、2002年にターリバーン政権崩壊、2004年に正式に共和制を取り戻した。

ギリシャ編集

かつて、軍事政権期は政情が不安定であったが、1973年に王制が廃止されて国王コンスタンティノス2世が亡命してからは政情が安定している。国王が亡命中の1973年、王制廃止の是非を問う国民投票が行われた結果、共和制派が多数を占めた。

エチオピア編集

エチオピアでは、1973年に政情不安から陸軍の反乱が起こり、1974年9月12日には革命が勃発して、ハイレ・セラシエ1世は軍部によって逮捕・廃位させられた。軍部は翌1975年に帝政の廃止を正式宣言して皇帝を暗殺し、社会主義国家の建設を宣言して戒厳令を敷き、1987年には労働者党一党独裁のエチオピア人民民主共和国を樹立した。

ラオス編集

ラオスでは1975年にラオス王国が滅亡し、共産主義政権が誕生した。

シッキム編集

シッキム王国は1975年にインド軍の侵攻によって滅亡し、インドシッキム州となった。

イラン編集

イラン1979年イラン革命が起こりパフラヴィー朝が廃され、イスラム共和制になった。

ネパール編集

2001年ネパールでは国王ビレンドラ、王太子ディペンドラら多数の王族が殺害される王族殺害事件が起こり、新たに国王に即位したギャネンドラ議会を解散し、自分に忠誠を誓う者のみを主要閣僚に任命し、専制政治を行った。そのため、ネパールの主要各政党は国王に反発し、各地で抗議行動を行ったほか、ネパール共産党毛沢東主義派(中国政府は一切の関わりはないと否定している)が各地でテロを行うなど、政情が混乱した。

このため、2006年にギャネンドラ国王は議会の復活と新憲法制定を約束し、事態を収拾させた。その後、再開された議会では国王の多くの特権を奪った。

2008年5月28日ネパール制憲議会が招集され、連邦共和制に移行することを宣言し、王制が廃止されることになった。

ほか編集

君主制の廃止が議論に上ることがある国編集

「自由・平等・民主主義の意識が浸透した現代においては、世襲であり、特定の一家系が政府によって特権的身分が保障され、実際には統治権を持たないが君主が存在する国家も多いといえども、生まれながらにして移動や職業選択の自由が付与されない君主の存在が時代錯誤である」と認識される傾向も多い。欧州では、EU加盟国の拡大や多国間統一通貨ユーロ導入によって「欧州統合」が進む中で、王室はもはや時代遅れという意見も台頭しつつある。

2010年チュニジアで起こったジャスミン革命に触発されて、君主による専制政治が続くアラビア半島では近年君主制に反発する動きが高まっている。

英連邦王国編集

イギリス編集

  イギリス - 2007年に行われた世論調査によれば、75%の国民がイギリスの(立憲)君主制イギリス王室存続を支持しており、王室への強い愛着がうかがえる[1]

しかし、一方で、王族は民間人・一般市民と乖離した生活や、頻繁にマスコミに取り上げられプライバシーがほぼ存在しない状態などの「人権侵害」から解放すべきだという人道的見地から王制廃止論を主張する者もいる。

イラク戦争の最中での2007年、1952年以降在位しているエリザベス2世女王の孫の一人で、チャールズ王太子ダイアナ元王太子妃の第2子・次男であるヘンリー王子イラク派兵が取りやめになったことに対し戦死者の遺族が不満を表し、王制への批判も出ている(ただし、2008年2月にはアフガニスタンに出兵していたことが判明。現在はイギリス本国に帰国している)。

仮に王制が廃止された場合、「女王陛下万歳」(God Save the Queen、男性国王の場合は「国王陛下万歳(God Save the King)」)に代わる新しい国歌を制作する必要があり、ドメイン名にもなっている United Kingdom (連合王国)の略語のUKがUR(United Republic=連合共和国)に改称されることも考えられる(イギリスにおける共和主義英語版に詳細あり)。

オーストラリア編集

  オーストラリア - 英連邦王国を構成する国の一つ、オーストラリアの国王でもあるイギリス女王の統治による立憲君主制から共和制への移行の是非を問う国民投票が1999年に実施されたものの、結果は現状維持が多数だった(1999年オーストラリア国民投票を参照)。なお、英連邦王国の王位はそれぞれ独立しているので、オーストラリアの王制が廃止されても、イギリスなど他の英連邦王国の王制には直接の影響はない。またオーストラリアがイギリス連邦に留まるかどうかも別の問題である。

ベルギー編集

  ベルギー - 王制は安定しているが、フランデレン地域ワロン地域の国内対立があり、フランデレン人の右翼政党フラームス・ベランフが、「外国人」である国王を拒否して共和制を唱えている[2]。フラームス・ベランフよりも穏健的なフランデレン人の政党新フラームス同盟も、王室には批判的であり、党首のバルト・デウェーフェルオランダ語版は、王宮での会見にネクタイをせずに現れた上で、「私は民主主義者なので、共和制主義者だ。出自のおかげで権力を持つ人物は信用しない」と述べた事がある[3]

スウェーデン編集

  スウェーデン - 同国主要政党のひとつ社会民主労働党は、1911年以来、「共和制導入(=王制廃止)」を党是の一つに掲げている[4]

イエーテボリ大学が2009年末に実施した世論調査によると、王制存続派は6年前の68%から56%に減少する一方、廃止派は16%から22%に増加しており、「10年以内に王制は廃止される可能性がある」と指摘する声もある[5]

日本編集

  日本 - 毎日新聞が2019年(令和元年)5月3日の憲法記念日を前に同年4月13、14日に実施した全国世論調査で、「今の憲法第1章に定められた象徴天皇制についてどう思うか」を尋ねたところ、「現在の象徴天皇制でよい」と答えた人が74%と多数を占めた。「天皇制は廃止すべきだ」は7%、「天皇を現在よりも、もっと権威と力のあるものにすべきだ」は4%で、いずれも少数にとどまった[6]

君主制支持の動き編集

タイ編集

  タイ - 日本と同様にアジアの中で欧米列強の帝国主義による植民地支配を免れたタイ王国では、1932年の立憲革命(立憲君主制への移行)以来2014年まで19回のクーデターが発生しており、政治家同士の対立によって流血騒動が起きたとき、1946年から2016年まで在位したプミポン国王の鶴の一声によって騒動が一気に鎮静化したため、タイ国民の国王に対する信頼は以前にも増して高まっており、タイでは王制廃止はほとんど唱えられていない。

ただし、タイで王政廃止の主張が展開されない理由として、タイでは王制廃止を目指す共産主義政党(タイ国共産党)が最近まで非合法政党とされていたことや、不敬罪規定により王室批判は事実上不可能であることも指摘されている。

2007年3月には、「YouTubeに投稿された、プミポン国王(当時)の顔への落書き映像が“不敬である”」として、タイ政府が削除要請を拒否したYouTubeへの接続を遮断した[7]

リヒテンシュタイン編集

  リヒテンシュタイン公国 - ヨーロッパ最後の絶対君主制国家といわれている。「ナチズムの台頭を君主大権の発動によって封じ、その結果、中立を保つことができたためである」とされているが、同国は永世中立国スイスと関税同盟を結んでいたため、いたずらに刺激するのを枢軸国側が回避したという面もある。[要出典]

君主制が復活した国編集

カンボジア編集

  カンボジア - フランスの植民地から独立したカンボジアカンボジア内戦により政情が極めて不安定になったため、国民を統合する象徴として、ノロドム・シハヌーク(いわゆるシハヌーク(シアヌーク)殿下)の人気が高く、シハヌークを国王とするため、新たに立憲君主制国家としてスタートした。しかし、与党人民党内には王制廃止論者も多い。[要出典]

スペイン編集

 
共和派のデモ(2006年、セビリャ

  スペイン - 1939年にスペイン第二共和政を転覆したフランシスコ・フランコは、法的には1947年に王国の復活を定めたものの依然として王位は空位とされフランコの独裁が継続した。フランコの死後、フアン・カルロス1世が国王に即位したが、ファン・カルロス1世は国内の民主化を進め、1978年に立憲君主制国家に移行させた。立憲君主制が民主主義の側面を打ち出しているケースの一例。ただし、共和制も世論調査で概ね1/3程度の支持があり、統一左翼のような共和制復帰を主張する全国政党もある。また、カタルーニャ独立運動に連なるカタルーニャの各政党は共和国としての独立を主張している。

脚注編集

  1. ^ 次期国王にウィリアム王子を=王室には愛着…英世論調査”. 時事ドットコム. 東京: 時事通信社 (2007年12月29日). 2007年12月29日閲覧。[リンク切れ]
  2. ^ 三竹直哉「統合の最後の砦——ベルギーの王制」『法学論集』第59巻、駒澤大学法学部、1999年、 112-183頁、 ISSN 04393287
  3. ^ Claire ROSEMBERG; Philippe SIUBERSKI (2013年7月22日). “ベルギー新国王を迎える政治的時限爆弾”. AFPBB News. http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2957221/11065008 2013年7月22日閲覧。 
  4. ^ 下條芳明「スウェーデン君主制憲法における王位継承制度——選挙君主制か、世襲君主制か」『商経論叢』第45巻第2号、九州産業大学商学会、2004年、 63-80頁、 ISSN 13497375
  5. ^ “王制への支持回復に期待感 スウェーデン王女の結婚”. 47News. 共同通信社 (東京: 全国新聞ネット). (2010年6月18日). http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010061801000787.html 2010年6月11日閲覧。 
  6. ^ 毎日新聞 (2019年5月3日). “毎日新聞世論調査 象徴天皇制「支持」74% 安倍政権で改憲「反対」48% - 毎日新聞2019年5月3日 東京朝刊”. https://mainichi.jp/articles/20190503/ddm/001/010/108000c 2019年6月24日閲覧。 
  7. ^ タイ「国王に落書き動画 許さん」 ユーチューブ遮断”. asahi.com. 東京: 朝日新聞社 (2007年4月6日). 2009年8月23日閲覧。[リンク切れ]

関連項目編集