呂号第五百一潜水艦
ドイツ、日本の潜水艦
艦歴編集
もともとはドイツ海軍のIXC40型潜水艦「U1224」で、1943年10月20日に竣工した。「呂501潜」は「呂500潜」とともに、日本海軍によるインド洋での通商破壊実施を望んだドイツがそれらをモデルとして通商破壊戦用の潜水艦を建造してもらうため譲渡したものであった[2]。この譲渡に際して、無償と理解した日本側と、有償だと考えていたドイツ側との間で齟齬が生じたが、最終的にヒトラーが「贈り物だ」といったことで落着した[3]。
1944年2月15日、日本海軍の艦籍に入った。伊号第八潜水艦で運ばれていた回航員(艦長:乗田貞敏少佐)はドイツ海軍の潜水艦学校において数か月間のUボート操艦のための日独合同訓練を行った。
同年3月30日、「呂501潜」は日本に向けてキールを出港[4]。「呂501潜」にはジェット機の設計資料を携えた吉川春夫など、4名が便乗した[5]。
連合国軍は「呂501潜」の行動を暗号解読により把握し、護衛空母「ボーグ」を中心とする部隊を派遣[6]。5月13日、大西洋・カーボベルデの北西でアメリカ海軍バックレイ級護衛駆逐艦「フランシス・M・ロビンソン」によって撃沈され、乗員五十余人全員が戦死した[7]。
艦長編集
戦後編集
1965年3月、来日した西ドイツの練習艦隊の乗組員らが希望して靖国神社の銀杏を持ち帰り、駐独日本大使を招いて呂号第五百一潜水艦の将兵らの合祀祭を行ったのち、キール軍港の慰霊塔に植樹が行われた。1970年に、ドイツ空軍総監ヨハネス・シュタインホフが返礼として樫(ドイツのシンボル)の苗を靖国神社に奉納している[10]。
脚注編集
- ^ 「昭和19年2月15日付 達第39号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070124200 。五〇一ではない。
- ^ 消えた潜水艦イ52、112-115ページ
- ^ 消えた潜水艦イ52、122-123ページ
- ^ 消えた潜水艦イ52、180ページ
- ^ 消えた潜水艦イ52、180-181ページ
- ^ 消えた潜水艦イ52、182-183ページ
- ^ 拳骨拓史 (2015). 昭和の戦争の真実. 扶桑社BOOKS
- ^ 「昭和19年2月15日付 海軍辞令公報(部内限)第1324号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095800
- ^ 「昭和19年11月8日付 秘海軍辞令公報 甲 第1638号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101800
- ^ 拳骨拓史 (2015). 昭和の戦争の真実. 扶桑社BOOKS
参考文献編集
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争続篇』光人社、1984年 ISBN 4-7698-0231-5
- 新延明、佐藤仁志『消えた潜水艦イ52』日本放送出版協会、1997年、ISBN 4-14-080307-X