呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん、永禄8年(1565年)? - 没年不詳)は、戦国時代和泉国の伝説的貿易商人。本名は、納屋助左衛門(なや すけざえもん)。別名で菜屋助左衛門(なや すけざえもん)や魚屋助左衛門(ちや すけざえもん)ともいう。堺の貿易商・納屋才助の子。

堺市民会館前にある銅像(1980年10月建立)現在は堺旧港プロムナードに所在

概要 編集

太閤記』などによれば、安土桃山時代ルソンに渡海し、貿易商を営むことで巨万の富を得た。文禄3年(1594年)7月20日、織田信長の後を継いで天下人となった豊臣秀吉に対して蝋燭麝香、真壺、ルソン壺(呂宋壺)、唐傘、香料など珍品を献上[1]し、秀吉の保護を得て日本屈指の豪商として活躍した。

慶長3年(1598年)、あまりに華美な生活を好んだため、石田三成文治派の讒言によって、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしすぎるとして邸宅没収の処分を受けることになるが、事前に察知してその壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安寺に寄進して日本人町のあるルソンへ脱出した。一説には献上したルソン壺が宝物ではなく一般に売られていた物(現地人の便器)だと発覚したことから秀吉の怒りを買ったともいう[注釈 1]

慶長12年(1607年)、スペインカンボジアに介入した後にルソンからカンボジアに渡海し、そこでカンボジア国王の信任を得て、再び豪商となったとされる。

備考 編集

  • 大阪府堺市の堺旧港に銅像がある[2]。また、同市の大安寺に助左衛門の墓といわれているものがある。

関連作品 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ ただし高麗茶碗のように、外国では日常雑器に過ぎないものを、日本人がそれを承知で価値を見いだして茶器として利用する例は多い。もっとも千利休が秀吉に切腹へ追い込まれた理由として推測されるひとつとして、安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした事が挙げられており、茶人の目利き次第で雑器に過ぎないものが高価で転売されている現状を、秀吉が快く思っていなかった可能性は考えられる。

出典 編集

  1. ^ 和漢三才図会
  2. ^ 堺市国際部アセアン交流推進室. “堺とアセアンのつながり”. 2021年6月15日閲覧。

関連項目 編集