呂文顕(呂文顯、りょ ぶんけん、生没年不詳)は、南朝斉の寵臣。本貫臨海郡

経歴 編集

はじめ孝武帝の下で斎幹直長となった。昇明初年、蕭道成の下で録尚書事となり、殿中侍御史に累進した。羽林監となり、蘭陵県丞を兼ねた。後に龍驤将軍・秣陵県令となり、劉陽県男に封じられた。

永明元年(483年)、寧朔将軍・中書通事舎人に任じられた。永明3年(485年)、南清河郡太守を兼ね、茹法亮らとともに舎人として宮中を出入りし、ともに武帝に信任された。四方から贈答を受け取って、広大な邸宅を造営し、その庭園には山を築き池を開いた。このころ文顕を含む武帝に仕えた中書舎人4人は「四戸」と称されて権勢をふるった。王倹は「これ禍いは四戸による」と言って武帝を諫め、武帝もそれを認めたが、かれらを掣肘することはできなかった。永明5年(487年)、文顕は建康県令となり、長水校尉に転じ、南泰山郡南譙郡の太守を兼ねた。ほどなく司徒中兵参軍となり、淮南郡太守を兼ねたが、なおも舎人として宮中に宿直した。左中郎将や南東莞郡太守を歴任し、右軍将軍の号を受けた。

廃帝蕭昭業蕭昭文のもとで西昌侯蕭鸞が輔政の座につくと、文顕は少府を代行して、蕭鸞に任用された。明帝(蕭鸞)の建武年間や東昏侯永元年間には、尚書右丞や少府卿に上った。後に在官のまま死去した。

伝記資料 編集