呉 世才(オ・セジェ、오세재1133年 - ?)は、高麗中期の学者、文人。 玄静(ヒョンジョン、현정[1]濮陽(ポキャン、복양[2]徳全(トクチョン、덕전)であり、本貫高敞呉氏である[3]

呉世才
各種表記
ハングル 오세재
漢字 呉世才
発音: オ・セジェ
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李仁老を中心とした文人のグループ、江左七賢(海左七賢とも)のひとり[4]

概要

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祖父にあたる呉学麟오학린)は、靖宗時代の翰林太学士であり、高敞呉氏の始祖となった[5][6]。その子である呉仁正(オ・インジョン、오인정)には、3人の息子があり、呉世才は兄弟の末弟で、兄に呉世功(オ・セゴン、오세공)と呉世文(オ・セムン、오세문)がいて、兄弟3人はいずれも詩文に秀でた人物として知られた[6][7]。後に、李知深(イ・ジシム、이지심)の娘と結婚した[2]

1151年毅宗5年)に進士試を受験した。この時、19歳であった[7]。後に明宗の時代に科挙に及第となった[3]

詩文は、韓愈杜甫を手本とし、「雖牛童走卒 無有不知名者」(牛童、走卒と雖も、名を知らずある者は無し)、つまり、牛飼いの子どもや、使い走りのしもべでもその名を知るほどであったとされている[2]

1185年明宗15年)、当時すでに53歳になっていた呉世才は、まだ18歳だった李奎報忘年之交(年齢差を越えた深い交わり)を結んだ[2]

彼は、結局のところ世に出る機会のないことを悟り、高麗の都であった開城を離れて遠方へ去ろうと考え、母方の祖父が東京(トンギョン、동경:後の慶尚北道慶州市)出身であったことから、そちらへ赴こうとした。しかし、道のりが遠く険しいので、祭告使祝史となり、馬に乗って東京へ赴いた。そこで余生を送り、開城に再び戻ることはなかった。 しかし、そちらでも見守る人もなく、貧困のうちに死去した[2]

脚注

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  1. ^ 国家が与えたものではなく、李奎報が贈った私諡である。(이규보, 《동국이상국집》, 〈전집〉37, 오덕전 선생의 애사
  2. ^ a b c d e 이규보, 《동국이상국집》, 〈전집〉37, 오덕전 선생의 애사
  3. ^ a b 《고려사》 권102, 열전15, 이인로 부 오세재
  4. ^ 近畿大学中央図書館 (2014年2月23日). “李仁老について知りたい。”. レファレンス協同データベース / 国立国会図書館. 2020年7月2日閲覧。
  5. ^ 오학린(吳學麟)”. 한국역대인물 / 韓国学中央研究院. 2020年7月2日閲覧。
  6. ^ a b 朴春日. “ウリ民族の姓氏-その由来と現在(40) 「三学士」の一人輩出した海州呉氏 種類と由来(27)”. 朝鮮新報社. 2020年7月2日閲覧。
  7. ^ a b 吳仁正の墓碑銘。

参考資料

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  • 高麗史《고려사》
  • 이규보, 《동국이상국집》, 〈전집〉37, 오덕전 선생의 애사
  • 오인정 묘지명(김용선 편, 《역주 고려 묘지명 집성 (상)》(개정중판), 한림대학교출판부, 2012)

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