呉 綱(ご こう、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。諸葛誕の長史。前漢呉芮の16世の孫[1]

甘露2年(257年)、諸葛誕が司馬昭に対して反乱を起こす(諸葛誕の乱)と、諸葛靚と共にへ援軍要請に赴いた。

小説『三国志演義』では第111回に登場する。史書と同じく、諸葛靚を連れて呉に援軍を要請する役回りである。

先祖の逸話 編集

『世語』によると、黄初7年(226年)に呉の住民が呉芮の墓を発いた。住民はその敷瓦を使用して、孫堅の廟を臨湘に建てた。

発掘された呉芮の遺体の容貌は生前のようであり、衣装も整っていた。後年、発掘に参加した一人が呉綱に会った時「あなたは長沙文王(呉芮)に似ておられるな。ただ背が少々低いところが違うか」と言った。それを聞いた呉綱は驚いて「それは私の先祖だ。君はどうやって見つけたのだ」と聞いた。

当人から詳しく事情を話され、それを聞き終えた呉綱は「すぐに埋葬し直しただろうな」と言った。当人は「既に埋葬しました」と答えたという。

脚注 編集

  1. ^ 三国志』「魏志」諸葛誕伝が引く『世語』より。