呑敵流(どんてきりゅう)とは、𠮷里呑敵齋信武が開いた柔術の流派。

呑敵流小具足
どんてきりゅうこぐそく
別名 竹内流
発生国 日本の旗 日本
発生年 江戸時代
創始者 𠮷里呑敵齋信武
源流 竹内流
主要技術 柔術
伝承地 土佐
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歴史編集

流祖は、竹内流を竹内藤八郎久直から学んだ𠮷里藤右衛門呑敵齋信武である。

板垣退助が学んだことで知られる。

板垣退助と呑敵流編集

板垣退助は、呑敵流を土佐藩士の本山団蔵重隆から学ぶ。板垣が本山団蔵から学んだ呑敵流は土佐藩のものである。

岐阜事件の際は、呑敵流の秘術の臂割(ひじわり、肘鉄砲の事)で相原に反撃した[1]。 後に板垣退助は、本山団蔵から呑敵流の免許皆伝を授かる。

系譜編集

岐阜事件編集

板垣退助は、相原尚褧に襲われた際、咄嗟に呑敵流の当身で反撃をした。この時、敵の心臓を狙って肘で当身を入れたが力を入れ過ぎた為に下にずれて腹部に当たった。後の取り調べで相原尚褧が警察に脾腹が充血して痛みに耐えられん言ったので、調べて見ると脾腹が黒いアザになっていたとされる。

岐阜事件の後、板垣は命が助かったのは師のおかげと思い、本山団蔵に贈物をして、この事を話したところ、本山は板垣に教えた武術が実地に功を奏した事を喜び呑敵流の皆伝免状を授けた。

「たちまち、一壮漢あり。『国賊』と叫びつつ、右方の横合より躍り来るや、短刀を閃かして板垣の胸間を刺す。板垣はこの時、赤手単身、洋杖すらも携えず。賊を見て大喝、叱していわく、『咄(こら) 何をするか』と。肘を以て強く敵の心臓を打ちしも、あまりに力をいれしため、下がりて腹部に當る。敵は蹣跚として飛び退きさらに身を転回して正面より突撃し来る」
「予(板垣)は人々に黙礼して二、三歩を出づるや、忽ち一壮漢あり『国賊』と叫びつつ右方の横合より踊り来つて、短刀を閃かして予の胸を刺す。(中略)内藤魯一、驀奔し来り兇漢の頸(くび)を攫(つか)んで仰向に之(これ)を倒す。白刃闇を剪いて数歩の外に墜つ。(板垣)、刺客を睥睨して曰く板垣死すとも自由は死せず』と。刺客は相原尚褧といふ者…(以下略)」(『我國憲政の由來』板垣退助[2])

系譜編集

  • 𠮷里呑敵齋信武
    • 辻宦太輔後温(辻宦太夫)
      • 徳永傳之助
    • 馬渕嘉平正保
      • 本山団蔵重隆
      • 横田源作
        • 山脇三太郎
          • 永野良𠮷
    • 櫻井甚五右衛門尚容
      • 島田隼介世直
        • 中山準助正義
          • 伊藤祐次郎祐騰
            • 平木宗齋
    • 石原庄兵衛武昌
      • 渡辺荒四郎
        • 三ッ柗勘兵衛勝満
          • 正木鋿五郎
    • 増田忠次
      • 赤木六大夫長定
        • 白神伊輔正則


脚注編集

  1. ^ 『朝日新聞』明治15年4月22日土曜日 第948号より 「其秘術臂割(俗ふ臂鉄砲と云)を相原の胸部へくらはされしが甚く彼に堪へて胸部一面に色を変せしが今に其疼痛を覚えしならんといへり」
  2. ^ 所収『明治憲政経済史論』国家学会編、238頁

参考文献編集

  • 山田實『yawara―知られざる日本柔術の世界』
  • 『朝野新聞』 明治15年4月18日
  • 『朝日新聞』明治15年4月22日土曜日 第948号

関連項目編集