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和田 豊(わだ ゆたか、1962年9月2日 - )は、千葉県松戸市出身の元プロ野球選手内野手)で、阪神タイガースの元監督。監督退任後は、阪神のオーナー付シニアアドバイザー[1]を経て、2017年11月1日から球団本部付テクニカルアドバイザー(TA)を務める[2]

和田 豊
Wada yutaka.jpg
阪神監督時代(2012年8月17日、神宮球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県松戸市
生年月日 (1962-09-02) 1962年9月2日(56歳)
身長
体重
174 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手遊撃手三塁手
プロ入り 1984年 ドラフト3位
初出場 1985年7月11日
最終出場 2001年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 阪神タイガース (2001 - 2015)
オリンピック
男子 野球
1984 野球

1985年に阪神へ入団してから、他球団へ移籍することなく2001年まで現役生活を送った。現役引退後は、一軍・二軍でのコーチを経て、2012年から2015年まで一軍の監督を歴任。阪神において、選手・コーチ・監督時代を通じて、31シーズン連続で現場に従事した人物は和田が初めてである。

目次

経歴編集

プロ入り前編集

松戸市立常盤平第一小学校、松戸市立常盤平中学校から進んだ我孫子高校では、1978年、1年生の時に三塁手として夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で石嶺和彦のいた豊見城高に延長10回サヨナラ負けを喫する。1年上のチームメートに板沢峰生仲野和男がいる。

卒業後は日本大学へ進学。当時の日大は東都大学リーグで二部に低迷していたが、1981年秋季二部リーグで優勝。入替戦で国士舘大を降し一部昇格を果たす。一部での優勝には届かなかったが、1983年春季リーグでは、1年下のエース石井宏の好投もあって駒大に次ぐ2位(同勝点、勝率差)となり、自身も首位打者を獲得。一部リーグ通算78試合出場、288打数94安打打率.326、4本塁打、22打点ベストナイン遊撃手)2回。1983年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出される。また1984年ロサンゼルスオリンピック野球日本代表として出場し、金メダルを獲得した。

現役時代編集

1984年、阪神タイガースにドラフト3位で指名され入団。同年限りで引退した藤田平の後継者として期待され、藤田がつけていた背番号6を与えられた。

1年目の1985年山脇光治と入れ替わる形で一軍に昇格。プロ初打席は四球だった。新人選手ながらチーム初の日本一達成に控え内野手として貢献した。1988年に監督に就任した村山実より、大野久中野佐資と共に“少年隊”と命名され、同年に遊撃手としてレギュラーに抜擢されると、当時の日本記録を更新する56犠打を記録した。 翌1989年にも最多犠打となり、小技と堅実な守備でチームの中心選手となった。1988年にはスイッチヒッターにも挑戦した。

1990年には、自身初の打率三割を記録。シーズン本塁打8本は生涯最高の本数となった。長打率も生涯唯一4割を超えた。また同年の三振わずか59個が生涯ワーストの数字ともなった。

当初、打順は2番が多かったが、勝負強く三振の少ない打撃を買われて徐々に1番に定着し、暗黒時代の阪神をチームリーダーとして引っ張った。守備にも定評があり、1992年から3年連続で二塁手としてゴールデングラブ賞を受賞した。特に1992年は入団した年以来となるチームの優勝争いに貢献し、ベストナインにも選ばれた。芸術的な流し打ちや、追い込まれてからの勝負強さを武器に「安打製造機」として活躍し、通算1739安打を記録した。特に通算安打は、1993年にリーグ最多安打(当時はタイトルではない)となるなど、好守の内野手として活躍した。一方、極端に長打の少ない打者として知られ、1991年から1993年まで、規定打席に達していながら3年連続で0本塁打であった。1994年5月25日の巨人8回戦(甲子園)で打った2点本塁打は1930打席ぶりに出たものであって、走者を置いての本塁打はプロ入り3673打席目で初めてだった。

1994年に自己最高の成績を残し首位打者争いにも加わり、シーズン終了後の契約更改で阪神の生え抜き選手としては初の1億円プレーヤーとなる。この年の打順は前半戦は1番、後半戦はロブ・ディアーの不振に伴い3番を任されていた。この年のシーズン147本単打は、それまでの1988年の新井宏昌の144本を上回ったが、同年オリックスのイチローが151本を記録した為、このシーズン終了時点はセ・リーグ新記録と日本プロ野球歴代2位(右打者としては1位)となった[3]。 翌1995年は前年最終戦で自打球を足に当て骨折した影響から不振に陥り、関川浩一に1番を譲り2番を打つことが多くなった。 1996年は開幕スタメンを7番でスタートするが、5月下旬には1番に戻り成績も復調。11月に行われた日米野球にも出場。特に甲子園での試合では野茂英雄から三塁打を放ち5打点を挙げる活躍をみせた。 1997年はシーズン当初から好調を維持し、開幕からの連続安打としては日本記録となる24試合連続安打を放つ。しかし7月の対中日戦で死球を受け左手人差し指と中指を骨折、9月まで2か月間戦線を離脱する。 1998年には結膜炎にかかり、一時期眼鏡をかけて出場していた。 1999年野村克也が阪神の監督に就任した際「監督が変わっても僕達は変わらない」と発言したため、初めてのミーティングの際に野村から「変わらないからチームが低迷したままなんだ」と叱責を受けた(後述)。

2001年に選手兼任で打撃コーチに就任。しかし選手との両立は困難であり、1988年以来続けていた開幕スタメンも途切れる。開幕から7月まで20打席以上ヒットの出ない日々が続き、初ヒットが出たのは7月11日であった。選手としては二度の二軍落ちを経験する一方、コーチとして一軍に帯同したため練習時間の確保ができず、特にビジターの球場ではそれが顕著であり感覚がずれないよう一般のバッティングセンターに通うこともあった。9月21日に現役引退を表明し[4]、10月1日が引退試合となる。この年唯一のスタメンとなった試合で、右前ヒットと四球で二度出塁、二度ともホームを踏み最後まで自分の役割を果たす。この日が最後の指揮となった巨人の長嶋茂雄監督(同じ千葉県出身でもある)への花束贈呈式の後、和田の引退セレモニーが行われた。スピーチの際、球団関係者・同僚への感謝の言葉に続き「…日本一の球場で、常によいコンディションで試合をさせていただいた、阪神園芸の皆さん。そして、いつも影で支えてくれた裏方の皆さん、マスコミ関係の皆さん…」という裏方への感謝の言葉が語られ、球場は一際大きな歓声に包まれていた。そして1985年のリーグ優勝と日本一を知る現役選手はこれで皆無となった。

現役引退後編集

コーチ時代編集

2002年からは背番号を86に変更してコーチ専任となり、優れた観察眼と指導で2003年のリーグ優勝を後押しした。2004年は二軍総合コーチを務めるが、翌2005年には一軍打撃コーチに復帰、チームは2年ぶりのリーグ優勝を果たす。コーチとして緻密なデータ解析をすることで選手の信頼を得た[5]

2007年から同級生である広澤克実の打撃コーチ就任に伴い、内野守備走塁コーチに配置転換された。2007年は一塁、2008年は三塁のベースコーチを担当した。 2009年からは再び一軍打撃コーチに配置転換。

監督時代編集

2011年10月28日、阪神の監督に就任[6]。他球団での所属歴の無い生え抜き監督としては1998年限りで退任した吉田義男以来14年ぶりとなる。

就任会見では「今の戦力に少しのスパイスを加えれば優勝争いできる」と発言し[7]、4月始めに出版した著書『猛虎復活』の中でもスパイス(のちに和田自身はネット上などで「スパイス」と揶揄されるようになる)と呼ぶチーム復活への具体的手法を提示し、外野守備走塁コーチに関川浩一を招聘し[8]、監督就任1年目の2012年は、主力選手の不振や選手層の薄さ等でチームが低迷し、また対巨人戦で大きく負け越したことも響き、チームは5位に終わる。

2013年は、シーズン前にメジャーから獲得した西岡剛福留孝介、ドラフトで一位指名した藤浪晋太郎らを加えた戦力が噛み合い、巨人に次いで2位に付ける。交流戦では一時は単独首位に立つもすぐに巨人に奪い返され、その後は首位に立つことはなく、8月27日からの巨人との直接対決3連戦で3連敗したことも響き、9月22日のヤクルト戦(甲子園)で敗れたことにより巨人の優勝を許してしまう。結果として3年ぶりのシーズン勝ち越しとクライマックスシリーズ進出を決定させたが、最終的には巨人に12.5差の2位に終わる。広島とのクライマックスシリーズファーストステージ(甲子園)では2連敗を喫し敗退した。

2014年は、交流戦で9勝15敗と大きく負け越すも、リーグ戦再開後の7月11日に7年振りとなる8連勝をし前半戦貯金ターンを確定させた[9]。一方、9月には6連敗を喫するなど不安定な時期も存在した[10]。しかし、9月27日には前年に続いてのクライマックスシリーズ進出を確定させ[11]、シーズンを通しては75勝68敗1分(勝率.524)[12]とし、昨年より若干ながら成績を向上させる結果となった。順位は最終戦を終えて2位広島と0ゲーム差とし[13]、その後、2位の広島が最終戦に敗れたため2年連続2位となった[14]。クライマックスシリーズでは、ファーストステージの広島戦を1勝1分で勝ちあがり[15]、ファイナルステージでは巨人を相手に4連勝し、球団史上初のクライマックスシリーズ制覇と9年振りとなる日本シリーズ進出を決めた[16][17]。クライマックスシリーズを無敗で突破し迎えた日本シリーズ(2014年)では、2003年の日本シリーズ以来の日本シリーズでの対ホークス戦であり、球団にとっても、当時コーチだった和田にとっても雪辱を果たす好機であったが、結果は1勝4敗に終わり、雪辱を果たしての29年ぶり日本一とはならなかった[18]

2015年は、中日を相手に開幕3連勝でスタート[19]するも、その後は調子を落とし、序盤は借金が続いた。しかし、5月28日楽天戦で、球団史上初の交流戦開幕3連勝[20]と球団通算5000勝を達成した[21][22](巨人に次いで12球団中2番目の早さでの達成である[23])。しかし、正捕手候補として期待された梅野隆太郎の伸び悩みや中継ぎ投手陣の育成がはかどらなかったために他チームに対して優位に立つことができず、さらにこの年も終盤戦失速することとなり、またしてもリーグ優勝を逃したことから、同シーズン限りでの退任が決まった[24]。最終的に3位でシーズンを終えた。CSファーストステージではリーグ2位の巨人と対戦したが1勝2敗で敗退。前年のCSのリベンジをされる結末となった。これにより10月12日のCSファーストステージ第3戦の巨人戦が監督として最後の試合となった。この退任により1985年に選手として入団以来、31年連続して着用し続けた阪神タイガースのユニフォームを脱ぐこととなった。週刊ベースボールでは生え抜きの日本人選手が育たない分、外国人への依存度が高まったと指摘された[25]

監督退任後編集

2015年12月1日付で、阪神球団史上初のオーナー付シニアアドバイザー(SA)に就任した[注 1]。就任後は、坂井信也オーナーに情報やアドバイスを随時提供する一方で、中村勝広ゼネラルマネジャー(チームの遠征に帯同していた同年9月23日に東京で急逝)が担っていた「フロントと現場の橋渡し役」を引き継いだ[26]

SA職の就任当初は、和田の3代前の一軍監督・星野仙一(現在は東北楽天ゴールデンイーグルス副会長)が監督退任後(2004年から2010年まで)に務めていたオーナー付シニアディレクター(SD)と違って、球団の編成業務に関与しない予定だった[1]。しかし、2016年に入ってからは、他球団のキャンプやアマチュアの有力選手を相次いで視察。関西テレビNHK大阪放送局MBSテレビサンテレビのゲスト解説者や、サンケイスポーツ野球評論家としても活動している。

2017年11月1日付で、球団本部付テクニカルアドバイザー(TA)へ異動[2]。特命スカウトとして、アマチュア野球の視察・調査活動に本腰を入れる。その一方で、トラックマン(投球や打球の軌道を測定する機器)をチームに導入する2018年シーズンからは、トラックマンで計測されたデータの分析を担当[27]。同年から新設された振興部の運営によって4月1日に開校予定の「タイガースアカデミー ベースボールスクール」(小学6年生までの児童向け野球教室)でも、特別顧問として定期的に指導へ赴く[28]

人物編集

  • 家族は、夫人と1男2女(第一子が長女で、第二子・第三子の長男と次女が双子)。長男・優輝は、報徳学園高等学校硬式野球部の内野手として、2009年第81回選抜高等学校野球大会に出場した。卒業後に進学した関西大学でも、硬式野球部でプレーを続行。3年生になった2012年からは、一塁手として、関西学生野球リーグの公式戦などにレギュラーで出場した。
  • 夫人は元スチュワーデスで、主に国際線に乗務していた。よく「機内で知り合ったのですか?」と聞かれるというが、二人は我孫子高校時代の同級生で、和田の方から声をかけてきたという。また、我孫子高校では声優・音響監督の辻谷耕史、声優のこおろぎさとみと同級生で、辻谷とは3年生の時にクラスメートであった。
  • 1996年はチーム事情から三塁を守ることが多かった。その時はチーム事情を慮りつつも「自分のポジションじゃない」「二塁に戻ってやるぞ」という気持ちから三塁手用のグラブは用意せず人から借りていた。(尚、二塁は平尾博司星野修が併用で起用されていた)[29]
  • 前述の通り、野村克也監督就任の際の「僕たちは変わらない」という発言で野村から叱責を受けているが、これは野村の野球を受け入れないという否定的なニュアンスではなく「別にサッカーをやるのではなく、我々はこれまでと変わらず野球をやるのだから、これほどのチャンスを生かさない手はない」というむしろ野村の就任は歓迎するニュアンスの言葉であった。また、野村の監督就任にあたって、「難しいデータにしばられるのではないか」「スコアラーなども仕事が増えて大変になるのではないか」という不安の声も上がっていたチーム内に対する言葉でもあったが、マスコミ報道を通じて正反対の意味に捉われてしまい起きてしまった騒動であった。[30]
  • 2000年6月7日の巨人11回戦(東京ドーム)では、前年までチームメイトだったダレル・メイ投手と対戦。打席に入っていた和田がタイムを要求し打席を外したところ、この行為があからさまな遅延行為だと憤慨したメイに頭部へボールをぶつけられそうになった。幸い和田には当たらず野村監督の抗議もなかったため、試合はそのまま続行されたが、メイが故意に和田を狙って投げたことが試合後に分かり、メイは出場停止処分となった。なお、和田はこの打席で二塁打を打ち、乱闘を呼ぶことなく報復を果たした。メイに対しては、後日、和田の方から歩み寄り和解の握手をしたという。
  • 現役時代のオフシーズンでは1日だけ思いっきり長打を狙うバッティング練習をする日を設けていた。これは「自分みたいな非力な打者は長打を狙っていけない」と自分を戒めていた和田が、この日に思いっきり長打を連発することでシーズン中の「長打を打ちたい」という欲を解消するためのものである。[31]。また、現役時代から膨大な資料や選手の特徴をメモ(和田ノート)に記載。指導者に転じてからも、「和田ノート」への記載内容を作戦面で生かしていた。
  • 阪神一軍打撃コーチ在任中の2003年に、阪神の公式サイトで日記「虎の意地」を連載。現役時代や外見の地味なイメージからは考えられないような内容で話題を呼んだ。なお、同年10月には、連載内容をまとめた単行本『虎の意地 ― 和田コーチの野球日記』を集英社から発売(ISBN 978-4087803853)。2008年の春季キャンプから2009年4月までは「虎の意地Part2」、2009年8月から2011年の春季キャンプ期間中まで「虎の意地Part3」を個人ブログとして開設していた。
  • 阪神一軍監督時代の2014年には、クライマックスシリーズ ファイナルステージ第4戦の勝利で日本シリーズの進出を決めた際に、ナインが和田の胴上げを準備していた。しかし、レギュラーシーズンを2位で終えたという事情から、「胴上げは日本一になった時にしてもらいたい」として胴上げを辞退した[32]。もっとも、同年の日本シリーズでは1勝4敗で敗退。翌2015年も、レギュラーシーズンを3位で終えた後に、クライマックスシリーズ ファーストステージで敗退したため監督在任中の胴上げは実現しなかった。

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1985 阪神 39 54 49 10 14 0 0 0 14 4 0 0 0 0 5 0 0 3 3 .286 .352 .286 .638
1986 8 5 3 0 1 1 0 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 .333 .333 .667 1.000
1987 54 59 53 8 13 1 0 1 17 2 3 2 3 0 3 0 0 9 2 .245 .286 .321 .606
1988 127 493 398 57 111 12 1 1 128 20 17 3 56 1 37 0 1 51 5 .279 .341 .322 .663
1989 129 563 476 61 141 20 4 1 172 25 18 8 40 1 45 0 1 39 7 .296 .358 .361 .719
1990 126 569 496 72 151 16 4 8 199 36 17 9 12 3 54 6 4 59 8 .304 .375 .401 .776
1991 129 565 494 50 147 13 3 0 166 34 9 13 10 2 58 4 1 48 14 .298 .371 .336 .707
1992 132 606 550 65 153 23 8 0 192 23 1 6 15 0 40 3 1 48 9 .278 .328 .349 .677
1993 127 579 511 63 161 22 2 0 187 36 4 1 18 2 47 2 1 35 15 .315 .373 .366 .738
1994 130 601 519 76 165 13 3 2 190 43 8 7 11 3 65 3 3 40 6 .318 .395 .366 .761
1995 130 569 509 49 136 22 4 1 169 35 4 4 11 1 45 0 3 39 14 .267 .330 .332 .662
1996 130 573 520 66 155 22 3 5 198 44 2 7 6 4 43 2 0 48 10 .298 .349 .381 .730
1997 96 423 390 51 117 17 5 2 150 26 3 0 1 3 25 1 4 44 4 .300 .346 .385 .731
1998 130 495 438 39 119 15 1 4 148 32 1 4 10 1 45 0 1 39 10 .272 .340 .338 .678
1999 101 379 334 30 101 13 3 3 129 23 4 4 11 0 32 1 2 29 13 .302 .367 .386 .753
2000 88 228 194 19 49 8 1 1 62 20 3 2 6 0 26 4 2 16 3 .253 .347 .320 .666
2001 37 44 38 4 5 2 0 0 7 2 0 0 0 0 6 1 0 7 0 .132 .250 .184 .434
通算:17年 1713 6805 5972 720 1739 220 42 29 2130 407 94 70 212 21 576 27 24 554 123 .291 .355 .357 .711
  • 各年度の太字はリーグ最高

通算監督成績編集

レギュラーシーズン



























2012 阪神 5位 144 55 75 14 .423 31.5 58 .236 2.65 50歳
2013 2位 144 73 67 4 .521 12.5 82 .255 3.07 51歳
2014 2位 144 75 68 1 .524 7.0 94 .264 3.88 52歳
2015 3位 143 70 71 2 .496 6.0 78 .247 3.47 53歳
通算:4年 575 273 281 21 .493 Aクラス3回、Bクラス1回
ポストシーズン










2013 阪神 セ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ
広島東洋カープ
(セ・リーグ3位)
0勝2敗=敗退
2014 セ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ
広島東洋カープ
(セ・リーグ3位)
1勝1分=ファイナルステージ進出
セ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
読売ジャイアンツ
(セ・リーグ1位)
4勝1敗=日本シリーズ進出
(※1)
日本シリーズ 福岡ソフトバンクホークス
(パ・リーグ1位)
1勝4敗=敗退
2015 セ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ
読売ジャイアンツ
(セ・リーグ2位)
1勝2敗=敗退
  • 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※1 アドバンテージの1敗を含む。

タイトル編集

  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回(1993年) ※1994年より表彰

表彰編集

記録編集

初記録
節目の記録
  • 1000本安打:1994年7月26日、対読売ジャイアンツ17回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に宮本和知から右前適時打 ※史上178人目
  • 1000試合出場:1994年10月4日、対横浜ベイスターズ26回戦(横浜スタジアム)、3番・二塁手で先発出場 ※史上323人目
  • 1500本安打:1998年5月23日、対横浜ベイスターズ7回戦(阪神甲子園球場)、4回裏にパット・マホームズから投手内野安打 ※史上74人目
  • 1500試合出場:1999年4月18日、対ヤクルトスワローズ3回戦(福岡ドーム)、2番・三塁手で先発出場 ※史上125人目
  • 200犠打:1999年6月1日、対横浜ベイスターズ9回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に福盛和男から一塁前犠打 ※史上19人目
その他の記録
  • シーズン最多犠打日本記録(当時) 1988年・56犠打
  • 開幕連続試合安打日本記録 1997年・24試合
  • オールスターゲーム出場:7回 (1989年、1992年 - 1996年、1999年)
  • オールスターゲーム通算打率.433(30打数13安打)

背番号編集

  • 6 (1985年 - 2001年)
  • 86 (2002年 - 2015年)[注 2]

登場曲編集

関連情報編集

作品編集

  • 虎の意地(ザ・マサダ、1998年4月)
  • 虎の意地-和田コーチの野球日記(集英社、2003年10月)
  • 虎の挑戦-和田コーチの野球日記「虎の意地」(宝島社、2004年2月)
  • 猛虎復活(宝島社、2012年4月)

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ ただし、和田の下で2013年・2014年に一軍ヘッドコーチを務めた黒田正宏も、編成部長退任後の2011年・2012年に「球団本部シニアアドバイザー」として阪神に在籍していた。
  2. ^ 当初コーチ就任が発表され、秋季キャンプに参加した際の背番号は81だったが、「6」が入っている背番号にこだわり、吉田康夫コーチと背番号を交換した。

出典編集

  1. ^ a b 和田前監督 シニアアドバイザーに就任”. デイリースポーツ (2015年11月7日). 2015年11月7日閲覧。
  2. ^ a b 阪神、和田豊氏に球団本部付テクニカルアドバイザー”. 日刊スポーツ (2017年10月24日). 2017年11月23日閲覧。
  3. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」333ページ
  4. ^ 「2002 ベースボール・レコード・ブック」 ベースボールマガジン社 59頁 2001年度の主な記録と出来事より。
  5. ^ スコアラーも脱帽するデータ解析
  6. ^ 「強い決意と信念で」=阪神の和田監督が就任会見-プロ野球”. 時事通信 (2011年10月28日). 2011年10月28日閲覧。
  7. ^ 就任会見でキッパリ!和田新監督「少しのスパイスで優勝争いできる」”. スポーツニッポン (2011年10月28日). 2013年2月16日閲覧。
  8. ^ 【緊急連載4】監督とコーチの仲たがいデイリースポーツ2015年10月1日
  9. ^ “阪神8連勝で2位浮上 打線爆発16安打12得点”. スポーツニッポン. (2014年7月11日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/07/11/kiji/K20140711008545640.html 2014年10月5日閲覧。 
  10. ^ “巨人3連勝 阪神2ケタ安打も泥沼6連敗”. 日刊スポーツ. (2014年9月11日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp1-20140911-1364892.html 2014年10月5日閲覧。 
  11. ^ “阪神CS進出!福留V打で2連勝”. 日刊スポーツ. (2014年9月27日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp1-20140927-1373538.html 2014年10月5日閲覧。 
  12. ^ “虎CS突破へ和田監督ゲキ「巨人倒そう」”. 日刊スポーツ. (2014年10月4日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20141004-1377298.html 2014年10月5日閲覧。 
  13. ^ “阪神 甲子園CS残った!最終戦で2位広島に勝って0差”. スポーツニッポン. (2014年10月2日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/02/kiji/K20141002009029020.html 2014年10月6日閲覧。 
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関連項目編集

外部リンク編集