唐 咨(とう し、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。徐州東海郡利城県の人。『三国志志「諸葛誕伝」に附伝されている。その他、魏志・志の各所に名が窺える。

魏で反乱を起こしたが失敗し、呉に仕えた。呉では厚遇を受け武官として出世した。諸葛誕の反乱の援軍に派遣されたが敗れて降伏し、魏に再び帰参した。

生涯 編集

魏の曹丕(文帝)の時代である黄初年間、利城郡において反乱が起き、太守が殺害された後に唐咨が反乱の指導者として祭り上げられた[1]。しかし、曹丕が派遣した追討軍[2]により反乱は鎮圧されてしまった。このため唐咨は船で海中に逃走し、呉の孫権を頼って落ち延びた。

嘉禾3年(234年)、廬陵郡会稽郡南海郡で賊が蜂起した[3]。このため嘉禾4年(235年[4]、唐咨は孫権の命令で劉纂と共に呂岱の指揮下につけられ、反乱の鎮圧にあたった。さらに嘉禾5年(236年)、唐咨は廬陵の賊である羅厲を捕虜とした[4]

豫章臨川の賊である董嗣の略奪を阻止するため、吾粲と共に兵士3000人を率いて防戦したが、数カ月経ってもこれを退けることはできなかった[5]

赤烏2年(239年)冬10月、都督の廖式が臨賀太守の厳綱を殺害し、平南将軍を自称して反乱を起こした。反乱の影響は零陵郡桂陽郡交州蒼梧郡鬱林郡にまで及び数万人の規模となった。このため唐咨は、孫権の命令で呂岱と共にその討伐にあたり、1年ほどでこれを鎮圧した[4]

五鳳3年(256年)、同じ魏からの降将である文欽とともに進言し、孫峻北伐を実施させた。同年8月に派遣された呂拠率いる先発隊に、唐咨も前将軍として従軍した。途中で孫峻が急死し孫綝が継ぐと、呂拠はこれに不満を持ち反乱を起こそうとした。しかし、唐咨は孫綝の命令を受け文欽と共に呂拠を攻撃し、これを滅ぼした[6]

呉においては左将軍にまで出世し、列侯され持節も与えられたという。

甘露2年(258年)5月、魏に対し反乱を起こした諸葛誕への援軍の将の1人として、文欽らと共に寿春に籠城し魏軍と戦ったが、魏の包囲陣の前に呉の後続の援軍が断れたため、城中に孤立した(諸葛誕の乱)。

甘露3年(259年)3月、寿春が落城し唐咨は捕虜となった。魏の司馬昭は諸葛誕・文欽・唐咨を三人の謀反人と呼び、魏の人達も唐咨が捕虜になったことを嘲笑した。しかし、司馬昭が唐咨を赦免し安遠将軍に任じるなど、厚遇を与えたため、人々は司馬昭の徳を賞賛したという。なお、他の呉からの降伏者も同様に厚遇を受けたため、呉側も彼等の家族を処刑するようなことはしなかったという。

景元3年(262年)冬、司馬昭は腹心の鍾会を仮節・都督関中諸軍事・鎮西将軍に任命し、蜀漢攻撃の準備をすすめる一方で、東方の州に船の建造を命じた。さらに唐咨に命じて大型の海上船を建造させ、表向きは呉攻撃の準備に見せかけようとしたという[7]。以後の事績は不詳である。

三国志演義 編集

小説『三国志演義』でも、諸葛誕の反乱における援軍の将として登場し、魏軍に敗れて呉に戻ろうとするが、孫綝に処刑されることを恐れ、司馬昭に投降したことにされている。なお、呉に残していた家族は孫綝によって処刑されてしまう。後の蜀討伐にも参加している。

参考文献 編集

脚注 編集

  1. ^ 『三国志』魏志「文帝紀」によると黄初6年(225年)6月。兵士蔡方らが郡を挙げて反乱を起こし、太守の徐質を殺害したという。
  2. ^ 『三国志』魏志「文帝紀」によると、屯騎校尉の任福・歩兵校尉の段昭が中央より派遣され、青州刺史王淩らが協力したという。『三国志』魏志「呂虔伝」によると、徐州刺史の呂虔が従軍。
  3. ^ 『三国志』呉志「呂岱伝」
  4. ^ a b c 『三国志』呉志「呉主伝」
  5. ^ 『三国志』呉志「周魴伝」
  6. ^ 『三国志』呉志「三嗣主伝」
  7. ^ 『三国志』魏志「鍾会伝」