唐宋変革(とうそうへんかく)は、代と代の間を中国史上の画期に位置づける学説が唐宋変革論である。大正時代内藤湖南が提唱し、その後の日本の東洋史学界に大きな影響を及ぼしている。

ただし、唐宋変革の位置づけについては中世から近世への変化とする学説(京大説)と、古代から中世への変化とする学説(歴研説)とがあり、両説を巡って激しい論争が展開された(時代区分論争)。

概要編集

唐代から宋代にかけての中国史を唐宋変革期とする学説では唐代以前を貴族中心の時代と位置づけるのに対し、宋代では庶民が政治・経済・文化の中心になると解釈される。政治構造的には「君主独裁制」が宋王朝の皇帝時代に敷かれる歴史観である。唐宋変革を研究する東洋史論が大学・大学院などの歴史研究者の間で盛んに議論された。日本の高等教育機関の東洋史の授業では唐宋変革論が中心的な講義科目となっている。

経済編集

宋代は改革開放後の1990年代から21世紀にかけての近現代の中国と同じ経済発展の時代である。宋代に登場した士大夫は地主資本家などの経済人や儒教的教養人の顔を持っていた。南宋時代には南方中華大陸の経済が急速に発展して江南地域の水田の大規模が開発が実施された。[1]商業経済の発展で人口が急増し、宋の時代に世界で初めて人口1億人を突破する国家となった。農地面積が4倍近くに倍増した。稲作の品種改良や麦と稲作の二毛作の稲作の二期作登場の農業革命があった。

宋の時代に絹織物産業と製紙及び木版印刷など手工業が発達した。造船技術が進歩して海上交通や貿易が盛んになった。農地の造成治水や作物の生産技術の発達で高度な農業社会に発展した。[2]陶磁器産業の最盛期で輸出品として陶磁器が朝鮮半島や日本などアジア諸国に輸出された。煬帝からの公共事業の工事で海運の役割をする京杭大運河など水運業などの運河が建設された。運河の開通で地方の農村と都市部を結ぶ交通網が発展して帝都開封などの商業都市が繁栄した。専売品や米などの南方の物資を北部の中華大陸に輸送する大運河が機能していた。[3]客商の商人が商業の原動力となり農村市場町が多数誕生して宋の社会が商業化した。

首都が開封に置かれた理由は物流の中心地であったからである。古都洛陽長安のような伝統的な皇帝支配の政治都市があるが、伝統的な政治都市よりも経済が発展した商業都市を宋王朝が重視するようになった。宋代の経済面の特徴は、商品経済と都市の発達した事である。[4]

宋代に紙幣や信用証券が登場して唐の時代の物々交換の社会から貨幣が流通する紙幣社会に変化した。[5]銅の貨幣宋銭日本アジアとの朝貢貿易[6]などで広く流通した。

軍事専門の百科事典などの軍事技術も発展した。[7]

政治編集

魏晋南北朝・隋唐は門閥貴族の時代で貴族層を中心とする律令政治が行われていた。皇帝は貴族たちの代表に過ぎないという状態であった。皇帝権は弱体で、皇帝殺害・帝位簒奪が多い時代であった。それが宋代になると貴族制が崩壊し、後世に「君主独裁」と呼ばれる体制が構築されることとなる。また、官僚は「士大夫」と呼ばれる知識人層が中心となり、新たな政治の担い手となった[8]

こうした変化をもたらした要因の一つに、官吏登用制度の変化がある。魏晋南北朝における官吏登用制度であった九品官人法は門閥貴族の温床となっていた。隋代からは科挙が導入されたが、依然登用されるのは貴族が多く、政治構造に大きな変化をもたらすには至らなかった。しかし、宋代に科挙に殿試が導入されると、官僚の出自は大きく変化し、旧来の貴族は一掃された[8]。士大夫と呼ばれた知識人の実家は地主や富裕な家庭であり、儒学などの教養の専門家だった。 科挙に合格して官僚となるが科挙制度に合格した官僚は庶民から儒学の論文試験の成績優秀者が選ばれて世襲制度ではなかった。

高級官僚になる科挙合格者は地方の裕福な大地主か都市の豪商の子弟が大部分だった[9]。庶民出身の宰相など支配層が登場して、宋代になって皇帝権力の禅譲革命が無くなった。唐の時代までの貴族政治で蔑視差別された庶民である。

唐詩訓詁学の唐の時代から宋代になると新儒学宋学宋詞が成立した。[10]軍事的に弱体化した国家であったが富国強兵策が行われた。王安石によって青苗法・募役法・保甲法・保馬法・市易法・均輸法・平準法などの様々な新法の改革が[11]神宗皇帝の時代に実施された。都市国家や商業経済となり受験競争や東洋式の学歴社会の基礎となった科挙の導入で官僚制を発足させていた。

外交政策は朝貢国を朝貢外交で支配した唐帝国の冊封体制から南北の宋王朝は閉鎖的な和平外交の国家となった、節度使体制で国家が誕生した宋は傭兵の常備軍の動員力が優先された。節度使の権限を削り君主独裁体制を強化して殿試・文治主義と言う知的な手法が導入された。皇帝中心の貴族や軍人による支配から文民統制への変更が国家戦略となった。地方資源は開発された生産が上昇した。戸籍や税制度や富の配分が混乱して地方の高税率や付加価値税は横行して貨幣供給が麻痺していた。両税法は土地私有や私有財産制を大幅に認めたところに新しさがあった。[12]

学術・思想編集

唐代の国際的文化に代わり国粋的傾向があるのが宋代の文化である。唐の貴族中心の文化に代わり士大夫と庶民が文化の中心だったのが宋代である。宋代は学問的には作文作詩の執筆技術が進歩して士大夫の文学として宋詞が発展した。唐宋八大家などの文学者が活躍して古典の暗記が重視された時代であった。中国で人類史に残る発明品印刷である。唐代に印刷技術が発明された。宋代に木版で印刷方法が普及した事で書物の出版を可能にして経書や史書がたくさん流通して科挙受験者数が急増した。宋代に儒学の古典などの印刷が盛んになり、宋代に書物の印刷が盛んになり書物の需要が高まった。仏教仏典大蔵経が盛んに木材品で印刷された。

私塾・義塾など民間の教育機関が都市部に設置されたり、農村の村社会では、書院や村塾など様々な教育施設が唐から宋にかけての唐宋変革の時代に急増した。[13]宋の学門を研究していた儒学者たちの間では、朱熹陸九淵の学門以外に永嘉学など様々な儒教の学派が誕生した。中華思想の仏教として士大夫層に禅宗が流行して民衆の間に浄土宗の信者が急増した。

儒学が刷新されて、宋学とよばれる新しい思想の儒教が誕生して、中華民族の古典的な学門が発達した。人間の生活の種類は政治と経済と法律があり、文化と思想と宗教があり、経済が基底的な意味を持っている。人間の諸活動は生きることである。王安石の貨幣制度改革で銅銭の国外持ち出しと銅の売買を禁止したが1074年に国外持ち出しを認めた。[14]

科学技術の発明編集

羅針盤の発明で大航海時代ヨーロッパ人による世界一周が可能となった。武器としての火薬が発明されてムスリム商人によって西洋に伝わりで木版印刷・羅針盤・火薬が中国三大発明品である。

研究史編集

戦前の日本は世界随一の東洋史研究の先進国であり、その中の内藤湖南が提唱したのが唐宋変革論である。それ以前は「唐宋八大家」の区分にみられるように、唐と宋の連続性を重視する見解が主流であった。これに対して唐宋変革論は、唐と宋を中国史上でも国家財政や経済文化の大変動が起きた時代と位置づける。これは日本の東洋史学界の主流を占める学説となり、後の時代区分を巡る論争においても、両派とも唐宋間で区分する点では共通していた。

内藤の死後は宮崎市定など京都学派(主に京都大学の研究者)に受け継がれた。京都学派の学説では、唐代までを中世として、宋代以降を近世とみなしている。宋代を近世とするのは、政治・経済・文化の多面的な変化はヨーロッパのルネサンスと共通点が多いことからである。

宋代の経済をめぐる論争編集

戦後の宋代史研究では生産の諸関係について、どれが基本的生産関係なのかその性格は何か種々の論争がされた。

唯物史観と「生産関係」編集

戦後の歴史学界、とりわけ歴史学研究会の研究者の大きな影響を与えていたのが、唯物史観である。その認識は以下を骨子とする。

  • 人間が生きていくゆえで大事な事は衣食住など諸生活手段の生産である。農業用の田んぼ水利事業など農業用地を改善した。[15]
  • 労働によって生産するのが経済で人間の諸活動の根源的なものである。人間は通常家族を構成して生産して互いの諸関係を結んでいる。賎民や奴婢が公的法的に宋の時代に姿を消していた。[16]
  • 農業をする労働者(小作人)で家族を構成しないもの奴隷であり、中国の史料用語で奴婢であり、1つ目は奴の男性がある。2つ目は婢の女性の奴隷である。奴隷は普通は大土地所有者(一般的の大家族を構成している)の下で農業生産に従事している。このような生産関係を奴隷的生産関係と言う。家族保有している大土地所有者に土地を借りて耕作行為と地代を納める。西欧のカテゴリーでは農業労働者の小作人の事を農奴と言う(中国では佃客と言う)このような大土地所有者を農奴の生産関係を封建的と相互で農奴制的生産関係の土台で成立している社会を封建社会と言う。人間は社会は個人及び家族構成や自分だけで生産を行えない。他のものと関係を結んで可能だったのである。
  • この生産をめぐる関係を生産関係と言う。その事に基づいて大土地所有者の直接生産者から余剰労働から収取関係や階級関係と言う。1つの社会通常複数の生産関係から成り立ち総称して生産諸関係の総体を生産様式と言う。生産諸関係について。基本的な生産の在り方はその社会の3つの性格がある。経済社会の生産システムの性格①は古代奴隷制社会である。生産システムの性格②は中世封建社会である。生産社会の最後になる性格の現代経済システムは③近代資本主義社会である。①古代奴隷制社会②中世封建社会③近代資本主義の3つの社会が生産システムを決定する。
  • 宋代社会は大土地所有者の地主から土地を借りて耕す佃戸と奴隷がいて自分の小さい土地を私有して家族労働により耕す自作農がいる。自作農と結婚して家族を保有して土地を借りている佃戸がいる。自分で経営する農民を小農民経営と言う。奴隷は補足的なものである。これら全ての組織で皇帝と官僚が構成する専制国家権力が存在する。官僚は地主が科挙を受けて合格する。本来地主は官僚と地主と自作農の所有する土地の民田であり、国家は皇帝が所有する土地があり、公田(官田)と言われる田んぼがあり皇帝の土地で皇帝が大地主である。

論争の概観編集

宋代史研究の第1期は昭和20年(1945年)の敗戦から1950年代の時期である。地主と佃戸関係を基本的な生産関係があるのか、など主に佃戸の歴史的性格をめぐって論争が展開された。東京大学歴史学研究会を中心とする学派(東大派・歴研派)の周藤吉之仁井田陞が佃戸の奴隷的隷属性の研究に着手し、地主に経済的のみならず人身的と人格的に支配されている事から農奴と規定した。東大派が宋代以降の中国の経済的な農業社会について封建社会説を唱えたのに対し、京都大学を中心する京都学派の宮崎市定は地主と佃戸の関係を自由と対等な経済的契約関係があるとして、宋代以降の社会を近世資本主義社会とした。全く相容れない両説を折衷しようとしたのが柳田節子で、地域差と言う観点を導入して両者の対立を解決しようとした。

宋代史研究の第2期は1960年代に唱えられたものである。国家は民である(自作農を中心に地主と佃戸も含まれる)事から国家と民の関係を基本とするものであり皇帝を唯一の奴隷主として民を全て皇帝の奴隷をする。重田徳小山正明の個別人身支配説がある。他に田中正俊のアジア的奴隷制説があり皇帝を農奴主として民を全て農奴とする説と鳥居一康の国家的農奴制説がある。

宋代史研究の第3期が1970年代から現在に至る学説である。村落共同体を基礎として第1期の地主と佃戸関係の宋代史研究の学説と第2期の国家と民の関係の宋代史研究を統一しようとした時期である。柳田節子高橋芳郎佐竹靖彦など諸氏の研究の丹蕎二の説がある。生産関係と諸関係について宋代社会は農業社会である。大地から諸生活手段が誕生した。生産する人間集団の最少の単位は家族である。家族より上位の単位は村落である。村落か人間と同じ家族の生産と再生産活動に何の意味もないとされる。村落共同体は実在しないとされる。

佃戸をめぐる論争編集

第1期が地主と佃戸関係で論争が行われた時期である。帝国大学中心の東洋史の唐宋変革の研究から戦後の歴史思想に変化した時代は昭和20年の敗戦の時期から1950年代の時期である。昭和20年代から昭和35年頃までに地主佃戸制を主張したのは周藤吉之である。中国の荘園代から代まで別荘の意味で唐末より宋代に至って荘は田園の所在を指すようになった。代より唐中期までの荘園所有者は宮廷と貴族である。唐王朝の中期から五代十国時代は節度使と武人の時代であった。唐の均田制が崩壊した後に均田農民の分解により上層農民の荘園所有者が出現する。節度使の保護を受けて官僚となり、宋代になり官戸形勢戸して荘園所有者となった。宋代の荘園の種類は2つある。1つ目の宋代の荘園は土地に集中しているものである。もう1つの宋代の荘園は各地に分散しているものがある。宋代の荘園には不輸の特権がなくて官僚の荘園は役を免除されていた。荘園について述べると地主の中から佃戸の中から指名された管理人を設置していた。耕作人は唐末に奴僕と荘客があり、奴隷に近い状態である。

宋代の農業は奴僕の耕作は重要でなくなる。佃戸の耕作が支配的となった。佃戸は奴隷に近いものが多かった。宋代の荘客について一般に佃戸がある。他の呼称は客戸・佃戸・租戸・地客・火客・隷農と呼ばれた。他の郷より引っ越して地主に租税契約の納めて土地・家屋・耕牛・農具を借りていた。代償として5割から6割の租税と副租税の納入をして、雑役に使用された。地主と佃戸の法律上の地位は、主人僕の分があって、刑法上2等の差別があり、佃戸は婚姻にも干渉された。佃戸は法律上移転の自由がなかった。江南地域では、北宋中期に佃戸に住居を移転する自由があった。随田佃戸について土地売買されるものが多かった。租税課税については現物納税が主流であった。分益方式の租税制度と定額租税制度があった。その他は代金納入方式と金納入の租税制度が宋王朝国家の税制度であった。まとめる論理の学説で税制度を述べると佃戸は重い税を納めていた。高利子の食糧返済するなど苦しい生活を送っており、南宋政府も凶作時代の減税を命じたが、効果がなかった。南宋の末期以降に佃戸は地主の租税課税の納入しない『頑佃抗租』が行われた。官田について官戸形勢戸が請佃し、種戸に耕作させる二重に小作関係が成立していた。民田でも佃戸の請負制度、佃戸と種戸の二重の小作関係が成立してるところもあったが多くなかった。

宮崎市定が佃戸の二重の小作関係と田主から業主になり種戸になる変化する関係がある学説を唱えた。周藤は官から⇒田主となり⇒種戸になる関係図と、業主から佃主から種戸の変化する関係で宮崎市定の中間経理者の存在を否定した。佃僕について唐代の奴僕の子孫がいた。僕は佃戸のように主家より独立して住んで租税課税を納めていた。地客は僕と呼ばれた。宋代の荘園について雇用人(人力・女使)も僕と呼ばれた。奴僕と共に主家の直営地を耕作していた。宋代の佃戸について地主に経済的・人格的・身分的に強く隷属して奴隷的であった。

周藤説の問題点編集
  1. 宋代の農業が大土地所有が荘園という形態だった学説を唱えたが 宮崎市定が指摘したように、宋代における商品経済の一定の発展の下、土地所有はある程度分散的に零細的になっていた荘園の制度があった。
  2. 周藤が佃戸の奴隷的隷属性質を強調するが、どうして頑佃抗租がおこるのか佃戸の佃権利が形成されるのかの疑問がある。
  3. 佃戸の移転禁止の一般法律が南宋初期に制定されるが史料的根拠がない。

参考文献編集

  • 内藤湖南支那論』文会堂書店、1915年。doi:10.11501/951361NCID BN12150902
  • 内藤湖南概括的唐宋時代観」『東洋文化史研究』1948年。
  • 宮崎市定『東洋的近世』中央公論新社中公文庫〉、1999年(原著1950年)。ISBN 978-4122034457
  • 西嶋定生鈴木俊『中国史の時代区分』東京大学出版会、1957年。NCID BN00949163

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 『早わかり東洋史』宮崎正勝122頁
  2. ^ 『若者に伝えたい中国の歴史』明石書店67頁
  3. ^ 『世界歴史大系中国史3』山川出版社174頁
  4. ^ 『中国史上巻』地域からの世界史。出版社朝日新聞社154頁
  5. ^ 『世界歴史大系中国史3』山川出版社170頁
  6. ^ 『早わかり東洋史』宮崎正勝123頁
  7. ^ 『中国史概説』出版社冨谷至昭和堂26頁
  8. ^ a b 宮崎市定 1999
  9. ^ 『東洋文明と日本』山口修執筆156頁
  10. ^ 『世界歴史大系中国史3』山川出版社171頁
  11. ^ 『目からウロコの東洋史』DHD研究所島崎晋145頁
  12. ^ 『世界歴史大系中国史3』山川出版社172頁
  13. ^ 『知識人の諸相』26頁
  14. ^ 『中国の歴史』森田憲司出版社昭和堂29頁
  15. ^ 『中国史概説』出版社冨谷至昭和堂58頁
  16. ^ 『世界歴史大系中国史3』山川出版社175頁

関連項目編集