営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故
座標: 北緯35度38分44.5秒 東経139度42分2.5秒 / 北緯35.645694度 東経139.700694度
営団地下鉄日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故(えいだんちかてつひびやせんなかめぐろえきこうないれっしゃだっせんしょうとつじこ)は、2000年(平成12年)3月8日午前9時1分頃に帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)が運営する営団地下鉄日比谷線において発生した列車脱線事故。死者5名、負傷者63名を出した。
営団地下鉄日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故 | |
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![]() 営団車両の損傷 | |
発生日 | 2000年(平成12年)3月8日 |
発生時刻 | 9時1分頃(JST) |
国 |
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場所 | 東京都目黒区上目黒 |
路線 | 日比谷線 |
運行者 | 帝都高速度交通営団 |
事故種類 | 競合脱線 |
原因 | 輪重比の不均衡 |
統計 | |
列車数 | 2台 |
乗客数 | 約1,100人 |
死者 | 5人 |
負傷者 | 63人 |
その他の損害 | 車両損壊 |
概要編集
北千住発、東急東横線直通各駅停車・菊名行き(営団03系、列車番号A861S、03-102編成)の最後尾車両(03-802)が、中目黒駅手前の急曲線における出口側緩和曲線部(カント逓減のため平面性が失われる箇所)で、カーブ外側の車輪が乗り上がり脱線を起こした。機材線用ポイントにより隣接線にはみ出したところ、対向の中目黒駅発東武鉄道伊勢崎線直通竹ノ塚行き(東武20050系、列車番号B801T、50番台21852編成 モハ23852)と側面衝突し大破した。死亡した乗客5名はいずれも東武側車両の6両目(モハ23852)に乗車していた。
東京消防庁では、午前9時8分に「電車出火、負傷者多数」との通報を受けて、火災第1出場及び救急特別第1出場を指令、消防隊、特別救助隊、救急隊を出場させた。その後、現場に到着した消防隊から「脱線により負傷者多数」との報告及び応援要請を受け、午前9時29分に救急特別第2出場、午前9時36分に救助特別第3出場を発令、救急隊29隊のほか、ハイパーレスキュー隊や特別救助隊等、合計77隊の消防隊・救急隊が現場で救助活動を行った。
原因究明と対策編集
原因として、1車両の内の8輪にかかる重量の不均衡(輪重比)が30%に及んでいても放置されていたことや、事故が起こった箇所は半径160mの急カーブであるにもかかわらず護輪軌条(ガードレール)が無かったこと、多数の列車が集中し、レール塗油の効果が減少する朝ラッシュ時であったことなどが挙げられており、複合的要因により発生した事故だとされている。そのため、いずれか1人に刑事責任を負わせる事はできないとされた。また、レールの保守・管理を担当していた営団工務部の職員5名が管理限界を超える線路の狂いを放置したとして、警視庁から東京地方検察庁に業務上過失致死傷罪で書類送検されていたが、「事故の予見は困難だった」として不起訴処分となった。
事故調査検討会は緩和曲線部、低速走行、摩擦係数の増加など複数の要因が複合した乗り上がり脱線であるとしているが、安全確保という観点から次のような見解を示している。すなわち、事故発生の主原因はボルスタレス台車において輪重比の大きな狂い、副原因は営団の護輪軌条の設置基準が極端に緩かった、という点が事故調査報告書の結論の主旨である。この見解を基にして、全国の鉄道事業者に以下のような2種3項の指示を順次出した。
- 半径200m以下のカーブ出口のカント逓減部(緩和曲線部)への護輪軌条の設置(2000/3/16通達、即実施)。
- 輪重比管理値を10%以内(左右の平均値±10%)とする(2000/4中旬 - 輪重比見解報道、5月 - 実施)。
- 「推定脱線係数比」という管理値を導入し、基準値に満たない(基準を超える)カーブへの護輪軌条設置を義務化(最終報告書、順次実施)。
1992年に半蔵門線鷺沼車庫(東急田園都市線鷺沼駅)で2度の脱線事故を経験してから、営団では社内調査により輪重比管理の必要性が指摘されていた。現場からは輪重計の設置が要求されていたが、これは却下・放置され、半蔵門線の車両のみの輪重調整に留めた。結果として日比谷線には輪重比30%を超える車両が走ることになった。また、半径140m以下のカーブにのみ護輪軌条を設置するという営団の設置基準は極端に低かった。事故現場は半径160.1mであったことから、護輪軌条は設置されていなかった。
同じく輪重比の不均衡を原因とする東横線横浜脱線事故が既に1986年に起こっており、東急はそれ以後輪重比の±10%以内への調整、半径450m以下の全カーブへの護輪軌条の設置を行っていた。しかしながら、運輸省が全事業者に通達を出すことはなく、営団でも点検は行われなかった。
この事故の報道においては、複数要因が重なって発生した脱線事故であることをもって、国鉄が「競合脱線」と説明した鶴見事故(1963年)と比較されることもあった。また、この事故が法改正を促し、航空・鉄道事故調査委員会発足の契機にもなった。
営団地下鉄の車両の対策編集
この事故を受けて営団地下鉄及び後身である東京メトロでは、2002年度以降に製造する車両において車体構造の見直しと台車構造の変更を実施した。なお、輪重とは左右の車輪にかかるバランスのことで、バランスが崩れると脱線の原因にもなるので、定期的に左右のバランスを等しくする必要がある。
2002年度落成の半蔵門線用08系・東西線用05系11次車(翌年度分の12次車も同様)では側構体(車体側面)構造をシングルスキン構造からダブルスキン構造に変更する「セミダブルスキン構造」を採用し、合わせて車体連結部の隅柱に衝突柱を設置して衝突事故時の安全性を向上させた[1] 。さらに曲線通過性能の向上や輪重抜け(輪重バランスが崩れること)の防止、輪重調整作業の作業性向上(従来は台車を分解して調整したが、小形ジャッキの使用で分解を不要化)などを図った新形式の台車を採用した[1]。
2004年度製造の東西線用05系13次車からは車体全体をダブルスキン構造で構成する「オールダブルスキン構造」を採用したほか、車体隅柱に強化したダブルスキン構造の衝突柱を設置し、より安全性を向上させた。
2006年度製造の有楽町線・副都心線用の10000系からは、輪重変動割合の大きいボルスタレス台車から、ボルスタアンカー付き構造台車への採用に戻った[2]。以降の新造車両ではボルスタ構造の台車を採用している。なお、メトロ線を走行する直通運転先事業者(東急(横浜高速含む)・東武・西武・JR東日本・小田急・埼玉高速・東葉高速)および線路共用区間を走行する東京都交通局(都営三田線)の鉄道車両にボルスタレス台車を装備する車両があるが、それらに関しては入線制限の規定を設けていない。
2020年3月28日からは、乗り入れ車両を含み日比谷線を走行するすべての車両がボルスタ構造の台車を採用している[3]。
なお、事故調査報告会の発した前出輪重比管理指示は、台車の狂いは同じでも車体重量が40%も軽くなると相対的に脱線係数が大きくなっていたのを改める指示であり、その最終報告書でも当該03系台車では輪重の不均一が起こりやすく、また操向剛性が比較対象車より若干大きかったことはデータとして指摘したが脱線の原因がボルスタレス台車であるとは断定していない。
その他編集
- 事故の再発防止策として、当時計画中だった13号線(副都心線)雑司ヶ谷 - 西早稲田間の曲線線形を変更する都市計画決定が2004年に行われた[4]。
- 事故後、営団は事故現場付近に慰霊碑を建立し、翌2001年には事故のあった3月8日を「安全の日」と定め、東京地下鉄に移行した現在に至るまで毎年、職員が事故現場で慰霊を行っている[5]。
- 中目黒駅では営団日比谷線全線開業間もない1965年、1967年と1992年にも事故が起こっていた。1965年の事故はこの事故とほぼ同じ箇所で脱線したものであるが、この時は対向列車がなかったため衝突などの大惨事には至らなかった。原因は営団3000系の台車フレーム破損による異常であった[6]。1967年と1992年の事故はいずれも東武2000系が引上げ線で側面衝突したものである。つまり、中目黒駅界隈では同じ箇所で2回ずつ事故が発生した訳である。
- この事故の責任を取るかたちで、寺嶋潔営団総裁(当時)が引責辞任した。陸上競技部は活動自粛を余儀なくされ、その後東京地下鉄(東京メトロ)に引き継がれずに廃部となった(小幡佳代子ら選手・監督はアコムが受け入れたが経営上の理由から2010年に廃部)。その後2020年4月に志水見千子を監督、鈴木博美をアドバイザーとして迎え「東京メトロ女子駅伝部 マーキュリー」の名称で再発足した。
- 犠牲者の一人は麻布高等学校に通い、大橋ボクシングジムに所属する当時17歳の高校生だった。事故当日は期末試験の最終日で、いつもより遅い電車に乗って事故に遭遇した。ジムの先輩で彼の面倒を見ていた川嶋勝重はこの犠牲者のイニシャルを刺繍したトランクスを着用して試合に臨み、WBC世界スーパーフライ級王者にまで上り詰めた[7][8]。また事故が発生した3月8日はジムの大橋秀行会長の誕生日で、事故以来十三回忌を迎えるまで誕生日会を自粛していた[9]。
- 犠牲者は5名だが、慰霊碑の銅板には4名の名前が刻まれている。ただ1人、当時37歳の女性の名前は遺族の意向で記銘されなかった。婚姻届を出してから8か月で妻を失った男性が事故から20年後の2020年になって初めてその理由を語り、「これ以上ない苦しみを生み出した場所。あの忌まわしい現場に妻の名前を残すことはできない」と考え記銘を拒否したという[10]。
脚注編集
出典編集
- ^ a b 『東京地下鉄道半蔵門線建設史(水天宮前 - 押上)』帝都高速度交通営団、2004年、[要ページ番号]頁。全国書誌番号:20594838。
- ^ 「新車ガイド「東京地下鉄10000系」」『鉄道ファン』、交友社、2006年9月。
- ^ “来年で”還暦”の日比谷線 車両更新は完了し、ただいま激変中”. AERA dot.. 朝日新聞出版 (2020年4月21日). 2020年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月19日閲覧。
- ^ 『東京地下鉄道副都心線建設史』東京地下鉄、2009年、172,179-180頁。全国書誌番号:21588011。
- ^ 『帝都高速度交通営団史』東京地下鉄、2004年12月、[要ページ番号]頁。全国書誌番号:20725566。
- ^ 川島令三『全国鉄道事情大研究』 東京都心部篇、草思社、2000年、76頁。ISBN 4-7942-0967-3。
- ^ 谷口隆俊「事故で亡くなったボクサー富久信介さんへ“20年後のラブレター”「痴漢から守ってくれた」同じ電車で恋心を抱いた女性から」『スポーツ報知』、2020年5月10日。2022年1月25日閲覧。
- ^ 「セカンドキャリア―引退から始まる物語・川嶋勝重・第4回」『中日新聞』、2013年3月2日、32面。
- ^ 山崎照朝「日比谷線脱線事故から20年…同じ電車に乗っていた女子高生からボクシング大橋秀行会長に語られた亡き“教え子”の新事実」『中日スポーツ』、2020年6月25日。2022年8月30日閲覧。
- ^ 「日比谷線脱線あす20年 妻の名、現場に残さない 夫、慰霊碑記銘せず「いまも心の中に」」『東京新聞』、2020年3月7日。2022年8月30日閲覧。
関連項目編集
外部リンク編集
- 帝都高速度交通営団日比谷線における列車脱線事故について - 国土交通省
- 日比谷線の列車脱線衝突 - 失敗知識データベース(失敗学会)