厳 象[1](げん しょう、拼音: Yán Xiàng延熹6年(163年) - 建安5年(200年))は、中国後漢末期の政治家。字は文則司隷京兆尹の人。

生涯 編集

若い頃から聡明・博学で、胆力と智力を兼備していた。建安年間の初めに路粋と共に抜擢された[2]荀彧に抜擢された人物の一人とも言われる[3]

督軍御史中丞に任じられ、袁術討伐のため揚州に赴くが、開戦前に袁術が病死[4]したため、そのまま揚州刺史に任命された。揚州で孫策の勢力が増してくると、曹操は彼らを手懐けるため厳象に命じ、その弟の孫権茂才に推挙させた[5]

建安5年(200年)、孫策が任命した廬江太守李術により、厳象は殺害された。享年38。

詳しい前後関係は不明だが、同年4月4日には孫策も死去し[6]、その勢力は孫権が継いだが、李術は孫権の命令には従わなくなった。孫権は曹操に手紙を送り、「私を推挙してくださった」恩人である厳象を殺害した李術の凶悪さを糾弾し、彼に味方しないよう訴えている[7]

出典 編集

脚注 編集

  1. ^ 『三国志』魏書 王粲伝注『典略』では厳像とする。
  2. ^ 王粲伝注『典略』
  3. ^ 『三国志』魏書 荀彧伝
  4. ^ 范曄後漢書』袁術伝によれば建安4年(199年)6月。
  5. ^ 『三国志』呉書 孫策伝
  6. ^ 孫策伝注『志林』
  7. ^ 『三国志』呉書 呉主伝注『江表伝