四諦

仏教用語

四諦(したい)または四聖諦(ししょうたい、: catvāri ārya-satyāni, チャトヴァーリ・アーリヤ・サティヤーニ、[要出典]: cattāri ariya-saccāni, チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・聖なる・真理())とは、仏教が説く4種の基本的な真理[1][2]苦諦集諦滅諦道諦のこと[1][2]四真諦[3]苦集滅道[4]ともいう。とは: satyaおよび: saccaの訳で、真理・真実の意[2][3]

四諦は概ね、十二縁起説の表す意味を教義的に組織したものであり、原始仏教の教義の大綱が示されているとされる[3]。原始仏教経典にかなり古くから説かれ、特に初期から中期にかけてのインド仏教において最も重要視され、その代表的教説とされた[5]。四諦はブッダ最初の説法で説いたとされている[3][5]

目次

概要編集

  • 苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切がであるという真実[2][3][5]
  • 集諦(じったい) - 苦の原因煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実[2][3][5]
  • 滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実[2]無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ[2][5]
  • 道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実[2]。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ[2][3][5]

苦諦と集諦は、迷妄の世界のとを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す[3]

四つの真理編集

苦諦編集

苦諦(くたい、: duḥkha satya, ドゥッカ・サティヤ、: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)とは、人間にとってはこの世界の一切が苦であるという様態の真相、現実を指す。人生が苦であるということは、仏陀人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。

四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、である。これらに、下の四つの苦を加えて八苦という。

  • 愛別離苦(あいべつりく) - する対象と別れること
  • 怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎む対象に出会うこと
  • 求不得苦(ぐふとっく) - 求めても得られないこと
  • 五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(身体・感覚・概念・決心・記憶)に執着すること

非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句の四苦八苦はここから来ている。

集諦編集

集諦(じったい、じゅうたい、: samudaya satya, サムダヤ・サティヤ、: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)または苦集諦(くじゅうたい)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって表れたものである、つまり「苦には原因がある」という真理のこと。 集諦とは「苦の源」、苦が表れる素となる煩悩をいうので、苦集諦ともいわれる。集(じつ)とは、招き集める意味で、苦を招き集めるものは煩悩であるとされる。

集諦の原語は samudaya(サムダヤ)であり、一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「積み重ねる」などを意味し、さらに「結合する」などを意味する。したがって、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。

苦集諦とは "duḥkha samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。具体的には貪欲瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは、欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。

仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。十二縁起とは、苦の12の原因とそのを示している。苦は12の原因のシステムであって、12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、無明も渇愛も、苦の根本原因であり、苦集諦である。

滅諦編集

滅諦(めったい、: nirodha satya, ニローダ・サティヤ、: nirodha sacca, ニローダ・サッチャ、苦滅諦, くめつたい)とは、「苦は滅する」という真理。

道諦編集

道諦(どうたい、: mārga satya, マールガ・サティヤ、: magga sacca, マッガ・サッチャ、苦滅道諦, くめつどうたい)とは、「苦を滅する方法・実践修行がある」という真理。これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。

宗派ごとの扱い編集

有部教学の修証論編集

大乗仏教編集

顕揚聖教論巻七では、四諦の内容を分類して八諦とする[3]。また、小乗の四諦観は不完全であるとするのに対して大乗の四諦観は完全であるとする[3]。小乗の四諦観を有作の四諦と貶称し、大乗の四諦観を無作の四諦と称する[3]。この両方を合わせて八諦ともいう[3]

法相宗では、滅諦に三滅諦を、道諦に三道諦を立てる[3]天台宗では四種の四諦(生滅の四諦、無生の四諦、無量の四諦、無作の四諦)を立て、これらを蔵・通・別・円の四教に配当する[3]

仏典における扱い編集

パーリ仏典編集

パーリ語経典は、釈迦はこの四諦のそれぞれを示・勧・証(知る・実践する・確認する)の三転から考察し(三転十二行相)、如実知見を得たので、神々と人間を含む衆生の中で「最上の正しい目覚め」に到達したと宣言するに至ったとする[6]

パーリ語経典長部の『沙門果経』では、四諦は、沙門(出家修行者、比丘比丘尼)が、戒律具足戒波羅提木叉)順守によって清浄な生活を営みながら、止観瞑想)修行に精進し続けることで得られる六神通の最終段階「漏尽通」に至って、はじめてありのままに知ることができると述べられている[7][要検証 ]

大般涅槃経における四諦編集

大乗の『大般涅槃経』の四諦品(したいぼん)では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。

苦聖諦
この世の苦を明らかに徹見し、如来常住の真理を会得すること。また常住の法身を信じないことが生死の苦の根源であると知ること。
集聖諦
苦の根源は煩悩妄執であることを徹見し、それに対して如来の深法は常住にして不変易であり、窮まりないと證知すること。また非法を先とし正法を断滅することが生死の苦悩を受け集める原因であると知ること。
滅聖諦
苦の原因である一切の煩悩を除き、苦を滅することが悟りの境地であるが、如来の秘密蔵(ひみつぞう)を正しく知り修智(しゅち)すれば、煩悩があっても除くことができる。また、衆生の一人一人が自己に内蔵する如来蔵(にょらいぞう)(仏性)を信ずる一念が苦を滅するということ。
道聖諦
仏道修行を通して一体三宝(仏法僧は差別なく一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること。また如来が常住不変易であるから、三宝の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。

脚注編集

注釈編集

出典編集

  1. ^ a b 中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、680頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、670頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、550-551頁。
  4. ^ 苦集滅道(クジュウメツドウ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年7月23日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 四諦(シタイ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年7月23日閲覧。
  6. ^ パーリ仏典』律蔵大品1:1:6:28[要追加記述]
  7. ^ 長尾雅人(責任編集) 『世界の名著 1 バラモン経典 原始仏典』 中央公論社、1969年、503-537頁。

関連項目編集

外部リンク編集