国司 元相(くにし もとすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。

 
国司元相
Kunishi Motosuke.jpg
国司右京亮元相
毛利博物館「毛利元就座備図」より)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 明応元年(1492年
または永正12年(1515年[注 1]
死没 天正19年12月28日[1]1592年2月11日
別名 助六[1]
官位 右京亮[1]、飛騨守[1]
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 高階姓高氏庶流国司氏
父母 父:国司有相[1]、母:不詳[1]
正室:渡辺勝[1]、継室:桂広澄[1]
元武[1]元蔵[1]元貞[1]
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生涯編集

明応元年(1492年)または永正12年(1515年)、毛利氏の家臣・国司有相の子として生まれる[注 1]

元相は毛利元就の嫡男・毛利隆元の傅役を務めて隆元から深い信任を得ており、天文7年(1538年8月7日に隆元から「元」の偏諱を与えられている[2]

天文9年(1540年)、出雲国の尼子詮久(後の尼子晴久)が大軍を率いて毛利領に侵攻し、吉田郡山城を包囲、攻撃してきた(吉田郡山城の戦い)。この戦いの局地戦である青山土取場の戦いで、元相は渡辺通らとともに奮戦し、尼子方を撃破する勲功を挙げた。

天文11年(1542年)、父の死去に伴い家督を相続。同年、周防国長門国を本拠とする大内義隆は、吉田郡山城攻略の失敗により勢力を著しく減らした尼子氏を一挙に滅ぼすべく、尼子領へ侵攻すると毛利氏もこれに従った。大内勢は尼子勢を撃破し、一時は月山富田城の包囲に成功したものの、翌年、尼子方の反撃によって敗走。元相も危険な撤退戦を行い、帰還を果たすものの戦傷を負っている。

天文19年(1550年)、家中の井上党を粛清した毛利元就は、新たな体制として五奉行制を定めると、元相は赤川元保粟屋元親桂元忠児玉就忠とともにその一人となった。弘治元年(1555年)の厳島の戦いでも奮戦。永禄3年(1560年)には正親町天皇の即位料を調進する使者として上洛。室町幕府の将軍・足利義輝にも面会し、槍の鈴の免許を与えられた。翌、永禄4年(1561年)の石見国松山城での戦いでは、児玉就忠と共に一番に城中に攻め入る功を挙げている。

元相は永禄10年(1567年)頃に嫡男の国司元武に奉行職を引き継いでいるが、その後も奉行人としての扱いを受けていたようで、元亀3年(1572年)の毛利氏家中の掟の制定に関して、奉行人の一人としてこれを確認している。

天正19年(1591年12月28日に死去。享年は77、または100[注 1]

家系編集

国司氏の祖先は足利尊氏の重臣・高師泰の子、高師武である。師武は観応の擾乱高氏が凋落した際、師泰と縁のある毛利氏を頼って安芸国に下向し、高田郡国司荘に土着し国司を名字とした。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ a b c 後に作成された国司氏の系図類では元相の生年を明応元年(1492年)としているが、山口県文書館所蔵文書の「贈村山家返章」に収められている書状や、日高山神社棟札において自らの生年の干支を「乙亥」と記しているため、これに従うと永正12年(1515年)生まれとなる。同様に日高山神社の棟札で嫡男の元武は「戊戌」と記されており、天文7年(1538年)生まれとなる。

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k 田村哲夫編修 1980, p. 116.
  2. ^ 『閥閲録』巻15「国司隼人」第17号、天文7年8月7日付 国司元相宛て毛利隆元一字書出状。

参考文献編集

  • 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。全国書誌番号:84027305NCID BN01905560ASIN B000J785PQ
  • 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。全国書誌番号:73004060NCID BN07835639OCLC 703821998 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 萩藩閥閲録』巻15「国司隼人」 山口県文書館編

関連項目編集

先代:
国司有相
安芸国司氏歴代当主
1542年 - 1567年
次代:
国司元武