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国鉄DD54形ディーゼル機関車

DD54形ディーゼル機関車(DD54がたディーゼルきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1966年から設計・製造した亜幹線用液体式ディーゼル機関車である。

国鉄DD54形ディーゼル機関車
DD54形32号機
DD54形32号機
基本情報
運用者 日本国有鉄道
製造所 三菱重工業
製造年 1966年 - 1971年
製造数 40両
引退 1978年
廃車 1978年12月1日
主要諸元
軸配置 B-1-B
軌間 1,067 mm
全長 15,300 mm
全幅 2,922 mm
全高 4,058 mm
機関車重量 約70t
台車 DT131B(動力台車)
TR104(付随台車)
(DD54 1 - DD54 3)
DT131E(動力台車)
TR104A(付随台車)
(DD54 4 - DD54 40)
動力伝達方式 液体式
機関 V型16気筒ディーゼル機関
81,400cc
DMP86Z (出力2,000ps)
変速機 DW5 (入力1,660ps)
保安装置 ATS-S
最高速度 95 km/h
定格出力 1,820ps / 1,500rpm
備考 製造時期により外観に差異
32 - 37は元空気溜管引き通し装備
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概要編集

国鉄の幹線・亜幹線用ディーゼル機関車としては既にDD51形が実用化されていた。DD51形では1,000馬力級エンジン[1]を2基搭載として大出力を得たが、1950年代後半以降、ヨーロッパの各国国鉄では西ドイツ国鉄V160形(後の216形。2,000馬力機関搭載)やベルギー国鉄200形(2,000馬力機関搭載)、フランス国鉄BB67000形(2,400馬力機関搭載)など、2,000馬力から2,700馬力程度の出力のディーゼルエンジンを1基搭載し、車両重量の軽減・保守の容易化・製造コストの削減を狙った設計の本線用ディーゼル機関車の量産が行われており、日本でも注目されていた。

しかし、この時代の日本においては、車載可能なクラスの2,000馬力級ディーゼルエンジンの製作経験がなく、またこのクラスの単一機関出力に対応するトルクコンバータを自力で設計・製造することも技術的に困難[2]であった。

そのような状況下で、三菱重工業[3]が当時、液体式ディーゼル機関車の設計製作で先進国であった西ドイツ(当時)のメーカーからライセンス供与を受けて技術を導入、まず1962年に西ドイツから輸入され、無分解運用が可能と謳われた1,820馬力級ディーゼルエンジン、およびこれに対応し自動変速を可能とした液体式変速機を搭載したDD91形試作製造。同機は1965年まで国鉄に貸し出されて山陰本線京都 - 園部間などで試験運用された。

同形式は試験終了後国鉄籍に編入されずそのまま三菱重工業に返却された。

試験結果が好成績であったこと、1機関1820P.S.と当時最も強力な出力でありながら自重は70tと軽量であり、同等の車両が欧州各国でも導入・運用されていた実績から、これを基本とした亜幹線用液体式ディーゼル機関車が量産されることとなり、本形式が設計された。

ただ実際の運用に入ると、当時の日本では手に余る技術であった事にくわえ、西ドイツ側との連携不足などもあり、トラブルを頻発させていた。そのためいずれの車両も法定耐用年数(18年)を終えず運用を離脱している。結果、失敗機関車との烙印を押され、国鉄の資産運用について国会で質疑応答が行われる事態にまで発展した。

製造編集

1966年に試作車としてDD54 1 - DD54 3の3両が製造され、各種試験に供された。DDで軽い軸重のため、空転により、急こう配で540t貨物が引き出しできないなど、いくつかの問題があったが、亜幹線用機関車の位置づけであったことから、無煙推進の旗手として増備されることになった。その後、1968年から1971年までの4年間にDD54 4 - DD54 40の37両が量産車として製造。西ドイツ側メーカーと三菱重工業がライセンス契約を結び、国内で製造を行った。

その開発経緯から、全車とも三菱重工業が製造を担当しており、製番は順に1389 - 1391・1485 - 1489・1631 - 1640・1738 - 1744・1750・1751・1753・1765 - 1776となる。

なお、わずか4年間に集中して37両が製造されたにもかかわらず製番が連続せず、かなり細かく細分化されている。これは当時の三菱重工業三原製作所が国鉄向けの他形式の機関車も国鉄から受注・生産していたため[4]であり、欠落部分の番号の大半はそれらに割り当てられている。

ライセンス生産となったエンジンや変速機については契約上、日本側での設計変更や改造は認められておらず、あくまで製造のみが認められていた。この事項が同機関車の運命を決定づける要因になった。

車体編集

 
参考:ドイツ連邦鉄道216形(旧V160形)。1,900PS級のマイバッハ社製エンジンとこれに対応した液体式変速機に加え、蒸気発生装置を搭載、車体上半分を内傾させた断面を持つ独特の車体デザインなど、機構・外形共にDD54形に大きな影響を与えた形式の1つ。

車体は前後に運転台を配した「箱形」[5]である。試作車にあたるDD91形ではいわゆる湘南形の、2枚窓構造の運転台を備えた平凡な構造・形状であったが、本形式に先行して設計・製造されたED72形ED73形交流電気機関車および新幹線911形ディーゼル機関車と同様に窓下を突出させた「くの字」状の前面形態が採用され、車体断面も側板の上半分を内側に傾斜させた、ヨーロッパ調の独特のエクステリアデザインとなっている。

重連運用を考慮していないため正面貫通扉は装備せず、総括制御に必要な釣り合い管や制御用ジャンパー線などを設置していない。

製造時期により外観は前灯の位置と前面窓の形状が異なるほか以下の相違点がある。

DD54 1 - DD54 3(量産試作機)
ステンレス窓ガラス支持・前灯窓上・サイドエアフィルター形状・動輪輪芯形状)
DD54 4 - DD54 24[6]
ステンレス窓枠・前灯窓下・連結器解放テコ先端形状・砂箱形状
DD54 25 - DD54 40
窓ガラスHゴム支持・前灯窓下・車体溶接構造の変更

大別で上述3タイプ、各部仕様で細分すると1 - 6次車に区分される。

主要機器編集

西ドイツのメーカーからのライセンス供与を受けて製作されたエンジン・変速機を搭載するが、動力台車や蒸気発生装置、それにブレーキシステムは同時期製作のDD51形やDE10形などとの部品の共通化が図られている。

台車編集

本形式は軸重上限の低い亜幹線での使用を前提とし、動軸重軽減のため軸配置を B-1-B とした。

動力台車編集

 
参考:DE10形用DT131E台車

一般的なアウトサイドフレーム(外側台枠)式の軸ばね台車を装着していたDD91形とは異なり、2軸インサイドフレーム(内側台枠)式台車であるDT131B(DD54 1 - DD54 3)あるいはDT131E(DD54 4 - DD54 40)を装着する。

これらは1965年設計のDD53形用DT131の派生機種[7]にあたり、最終減速機の歯数比が本形式と同じ1966年に設計されたDE10形試作車(DE10 1 - DE10 4)用DT131Cと同じ4.482となっているなど、極力他形式と共通の部品を採用することで保守の合理化を図っている。

なお、量産車が装着するDT131Eは、DE10形基本番台(DE10 5以降)および500番台などに採用されたのと全く同一品である。

中間台車編集

2台の動力台車の間にTR104(DD54 1 - DD54 3)あるいはTR104A(DD54 4 - DD54 40)と呼称する、リンクにより横動を許容される構造の1軸中間台車を装着する。量産車でのサフィックス付与は、試作車用のTR104で台車装架であったATS車上子が車体床下装架に変更になった事に伴う設計変更を反映したものである。

この中間台車の装着により、本形式は自重約70tの大型機でありながら軸重は約14tに抑えられ、4級線への入線が可能となっている。

機関・変速機編集

使用予定線区の実輸送量に鑑み、DD51形よりやや出力を抑えた設計もDD91形から継承された。

搭載機関は西ドイツマイバッハ社(Maybach=現・MTUフリードリヒスハーフェン)設計によるMD870を三菱重工業がライセンス生産を行ったDMP86Z[8]、液体変速機は爪クラッチを介在させた4段変速機構をもつDW5で、同じく西ドイツのメキドロ社(Mekydro)が設計したK184Uのライセンス生産品である。この変速機構のため、力行中の変速進段時に一旦エンジン回転数が下がる変速音を発しながら加速するという独特の走行音であった。なお、1次車でシリンダーの水漏れトラブルが発生し、その対策をしたことから2次車の落成が遅れた。

ブレーキ編集

同時期の国鉄ディーゼル機関車で標準となっていた、DL14Aブレーキ装置を搭載する。

蒸気発生装置編集

旅客列車牽引運用への対応として、全車が列車暖房用蒸気発生装置(SG)を搭載する。

SGはDD54 1 - DD54 3がDD51形初期車と共通のSG4、DD54 4 - DD54 24がこれを改良して蒸気発生量を増大させたSG4A、そしてDD54 25 - DD54 40がSG4Aを完全自動運転方式に改良したSG4A-Sをそれぞれ搭載する。

いずれも同時期製造のDD51形に搭載されたものと同一設計品で、縦型水管式ボイラーを備える機種である。

改造工事編集

1968年6月28日に山陰本線鳥取 - 湖山間の岩吉踏切付近で急行「おき」を牽引中だったDD54 2の推進軸ユニバーサルジョイント)が突如破損落下。続いて1969年11月にも山陰本線浜坂 - 久谷間の勾配力行中などのDD54 11・14が落下した推進軸を原因とする床下からの出火事故が発生した。全検から間もない時期にも関わらず推進軸に起因するトラブルが連続発生したことから、対応策として1970年より推進軸強化や脱落防止加工を施工した。

1972年に新設の寝台特急出雲」牽引用として前年に8両が新製配置された米子機関区所属車の中からDD54 32 - 37(6両)が同列車の牽引機に指定されたが、当時「出雲」に使用される20系客車は全車が110km/h運転に対応するために応答性能の高いAREB増圧装置付電磁自動空気ブレーキへ改造済で電源車以外の全車が圧縮空気の消費量の多い空気ばね台車を装着することから、牽引にはブレーキ増圧装置・空気ばねへの空気圧供給用元空気溜管(MRP)引き通し[9]・妻面腰板部中央にヘッドマーク装着固定用金具を追加搭載・設置する改造工事を施工した。

運用編集

1966年に先行試作車であるDD54 1 - DD54 3の3両が福知山機関区(現・福知山電車区)に新製配置された。1967年11月には、初めて米子鉄道管理局管内へ試運転を行い、1968年から、急行「おき」をはじめとする優等列車の牽引も受け持ち、無煙化を推進した。

1968年から1971年までに量産車37両が順次落成し、全40両の内DD54 1 - DD54 29・DD54 38 - DD54 40の32両が福知山機関区に、DD54 30 - DD54 37の8両が米子機関区(現・後藤総合車両所)に、それぞれ配置された。本形式はその新製時の計画通り、当時山陰本線播但線・福知山線などの列車牽引運用に用いられていたC57形C58形等の蒸気機関車を置換え、当該路線群における無煙化を促進した。

1968年10月6日にはDD54 1(本務機)・DD54 3(前補機)の2両が、福井国体開催に合わせて運行されたお召し列車の牽引に供された。

1970年より、重大なトラブルを招いていた推進軸の交換を進める。これ以降、初期のような致命的トラブルは発生しなくなっていった。

1972年3月15日から京都 - 浜田間で、米子機関区配置機6両により寝台特急出雲」牽引が開始された。しかし、この頃からエンジン本体や液体変速機側での故障が頻発するようになる。本形式の牽引する列車を当時残存していたC57形蒸気機関車が救援する、といった皮肉な事態すら発生するようになっていた。このため「出雲」運用への充当は1年半で終了し、1973年秋には同運用のDD51形へ置き換えが実施された。

さらに、本形式での故障頻発が運用・保守の両面で深刻な問題となっていたことと、DD51形が初期故障をほぼ克服し安定した稼動実績を確保していた状況から、本形式はDD51形で代替・淘汰されることが決定される。1975年から1977年にかけて山陰地区へ同形式の新造ならびに他地区からの転入が実施された。

これにより、その時点で山陰本線用として配置されていたDF50形と本形式の淘汰が実施され、本形式は1976年6月30日に12両[10]1977年1月17日に10両[11]、同年11月21日に10両[12]1978年5月11日に4両[13]廃車された。

最後に残った4両[14]も1978年6月18日の播但線645列車を最後に運用から離脱し、同年8月に休車。同月11日に一旦全車廃車となった。しかし、DD54 12とDD54 33については一旦廃車の後、何故か車籍復活の手配がとられ、同年12月1日に改めて廃車された。これをもって本形式は形式消滅となっている。

休車・廃車車両は解体まで鷹取工場・福知山駅東舞鶴駅生野駅構内に留置された。

故障・事故編集

本形式に搭載されたDMP86Zは、6バルブDOHCによる吸排気を行う、精緻な設計と構造を有していた。乾燥重量 7740Kg、出力あたり重量は4.25kg/PSで、国産のDML61Z型の5.10kg/PSを上回っていた。出力と耐久性には問題がないなど極めて優れた設計のエンジンであった。また、液体式変速機は常時歯車噛み合わせ式で直結段を持たないなど、当時、日本国鉄がDD13で採用していたリスホルム・スミス型の変直式、DD51で採用していたフォイト社開発の充排油式とは異なる、1つのコンバーターと機械式変速機を組み合わせた、自動車用ATに近い機構であった。全般的に西ドイツの工業製品らしい、精緻な製品であった。

もっとも、試作車のDD91形がエンジン・変速機共に西ドイツ製の純正品を搭載していたのとは異なり、本形式ではそれらをライセンス生産契約に基づき三菱重工業が製造した、日本製同等品が搭載されており、1次車では、3両のうち2両で、冷却水がシリンダ内に漏れるトラブルが発生し、三菱重工業の稚拙な工作能力が露見した。さらにDE10形などと台車を共通設計とした結果、最終減速機や推進軸周りの設計がオリジナルのDD91形とは異なったものとなっていた。

機関は、概ね好調だったものの、後述するように、本形式の重大故障は、ライセンス生産された液体変速機や、DD91から変更された台車まわりなどに集中していた。西ドイツではMD870系列の機関はB-B(V160型)、C-C(V320型)の軸配置と組み合わせて使用されたが、本形式は軸重や押圧低減の理由で、B-1-Bの変則的な軸配置とならざるを得なかった。車体内部の1エンド側にエンジンと変速機、2エンド側に蒸気発生装置(SG)を搭載しており、車体前後にある2軸駆動の動力台車を変速機からの推進軸(プロペラシャフト)で駆動させる方式であったが、2エンド側の動力台車へは、推進軸が中間の1軸台車の上を超えて、さらに継手を介して台車に伸びるという、非対称の構造になっている。なお、DD542の事故では、1エンド側の継手が破損し、短い側の推進軸が落下した。

西ドイツ本国では、K184U変速機はマイバッハ社V12 MD655 1500hp、MD870 1700hp と組み合わせて使用されていた。K184Uの定格入力は1660P.S.であるが、DMP86Zは短時間出力は2200P.Sであり、組み合わせに無理があったと考えられる。国鉄設計事務所も把握していたと考えられ、DD544~の二次車にはタコメーターを追加して、規定以上の出力監視に配慮した。くわえて、DD91は正規品の機関変速機であったが、上述のとおり、DD54はライセンス生産品であり、マイバッハやメキドロが秘匿としたであろう製作ノウハウが、正規品との差異、トラブル多発につながったことは否めない。

本形式は、変速機周りの構造が比較的単純であったDD51形などと比較して複雑で整備に非常に手間がかかるほか、故障となると配置車両基地の保守掛の手に負えず、三菱側保守担当者が常駐する鷹取工場へ回送して修繕を行う必要があった[15]。また設計・構造についての不明点を西ドイツのメーカー本社へ問い合わせるなどの際にライセンス契約締結時に仲介を行った三菱商事の対応が悪く、またメーカー本社の回答も遅れて修繕が進展しないといった悪循環も発生した。この結果、国鉄の本形式に対する信頼は完全に失われた。

以下で事故・故障のうち多発した症例について解説する。

推進軸破損落下事故
1968年6月28日、山陰本線鳥取 - 湖山間の岩吉踏切付近(現在は廃止)で急行「おき」を牽引中だったDD54 2の、1エンドの台車側のユニバーサルジョイントが突如破損落下。かろうじて繋がっていた推進軸が湖山駅21番分岐器に接触し落下、線路ほぼ垂直に突き刺さり同車が脱線転覆、続く客車6両も脱線する事故を起こした[16]
翌1969年11月にも山陰本線浜坂 - 久谷間の勾配力行中などのDD54 11・DD54 14が推進軸が落下、床下から出火するなどエンジンの高出力に耐え切れなくなった推進軸に起因する故障が多発した。
直接の原因は三菱側の強度計算の誤りによる設計ミスであり、対策として推進軸の強化や脱落防止が施工され解決し、1970年以降推進軸のトラブルによる重大事故は発生していない。ただし経年変化も影響して、今度は変速機にトラブルが多発するようになった。
液体変速機の故障
本形式搭載のDW5液体変速機は原形となったK184Uの設計を踏襲し、シフトアップ・ダウン時にエンジンの回転数とトルクコンバータの回転数を同調させて接続する凝った構造のため爪クラッチをギヤ回転のまま接続させた時のショック緩和用に衝撃緩和装置まで装備するなど従来の国産機にはみられない非常に複雑精緻かつ巧妙な構造・機構を採用していた。しかし、本形式の運用においては日本国鉄の保守能力を超えた装置全体でのギヤ欠け・コンバータ故障・クラッチ損傷が多発したと言う意見がある。しかし国鉄は、製品として液体変速機を購入したわけであり、DW5で頻発した歯車の欠けやクラッチなどの不具合は、もはや製品とは呼べない代物であり、三菱重工業の稚拙な工作能力を如実にあらわすものである。
冷却ファンの故障
DD54の冷却ファンは、一部はDD51と共通設計の、温度感知部のワックス[17]の膨張度合いで回転数を制御する静圧ファンを採用していたが、1974年(昭和49年)に山陰本線下北条 - 由良間で下り急行「だいせん」を牽引中にファンが停止。油温の異常上昇による機関停止ならびに再起動不可能となった事例が発生した。

早期廃車編集

際立ったスタイルで注目を浴びた最新鋭機関車でありながら事故と故障の続発に当初の期待とは裏腹に早々と運用を離脱する結果となった。そして以下の経緯から車両としては失敗作と位置付けられた。

  • 完成された大出力エンジンや液体変速機の高性能かつ複雑な機械を保守するだけの技術力が当時の国鉄やメーカーに決定的に不足していた。
  • ライセンス生産品であるために、改良もライセンス契約に抵触する部分は本国のメーカーにいちいち了承を取らなければならず、改良実施までに煩雑な手間と時間を要した。

これらが問題点への迅速かつ最適な対応ができず解決を長引かせた主因である。さらに運用されていた1970年代はちょうどマル生運動の挫折によって労使関係が悪化した時期と重なる。現場では国鉄労働組合(国労)・国鉄動力車労働組合(動労)の勢力が極めて強く、最先端技術を採り入れた車両や保守取り扱いに手間のかかる不便な車両は「労働強化に繋がる」と敬遠される傾向もあった。

日本技術陣が独自開発を行ったDD51形も初期故障に悩まされたが、本形式とは対照的に設計変更と改造を繰り返しながら開発陣と保守陣が一体となって克服することができ、後の大量増備につながった。

  • 淘汰完了直前の段階で本形式の保守費はDD51形の18倍にも達していた。

国鉄も予想し得なかった高価な新鋭機関車の早期淘汰は、廃車時の車齢が最長でも約10年[18]で、全車とも法定耐用年数(18年)に達していないばかりか、平均で7年4ヶ月、最短で4年10ヶ月[19]とその半分にも満たなかったことから後日国会で問題として取り上げられ[20][21]会計検査院からも不適切な処理を指摘された。ほぼ同じ時期に、国鉄ではEF70形ED74形が製造から15年前後で多くの機関車が余剰になったが、こちらも耐用年数の問題などで長期休車を余儀なくされた。

保存機編集

 
DD54形33号機(交通科学博物館時代)
米子機関区時代に特急「出雲」牽引機であったため、ヘッドマーク取り付け金具と20系客車用の元空気溜管を備える。本形式唯一の保存機。
  • DD54 33 - 交通科学博物館大阪市港区)→京都鉄道博物館京都市下京区
    最後まで使用された4両中の1両で、米子機関区配置時代に特急「出雲」牽引機に指定された6両中の1両[22]でもある。このため、現在も20系客車への空気圧供給用の元空気溜管とヘッドマーク取り付け金具を装着する。労働組合の抗議行動により「欠陥機関車の証拠」として残すため解体を阻止され[23]福知山機関区に留置されたとされているが誤りであり、交通医学で著明な業績を持つ医学博士が、1978年(昭和53年)6月、国鉄に出雲号牽引で思い出のある33号機の復活ないし保存を要請し実現したもので、33号機は、同年8月11日に廃車の後、復帰の手配が取られたことがある。
    1984年1月に福知山機関区から搬出。同年3月に交通科学博物館大阪市港区)に搬入され、第2展示場で保存展示された(当初は鉄道記念日など特別の日のみの公開であった[24])。2014年4月の閉館後、2016年4月29日より京都鉄道博物館で保存展示されている[25]。再塗装も施工され保存状態は良好である。
    現存し形状をとどめるDD54形はこの33号機が唯一で、それ以外は廃車後、すべて解体され現存しない。

脚注編集

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  1. ^ 後に1,100馬力に出力向上。
  2. ^ 日本における2,000馬力級車載ディーゼル機関およびその対応液体変速機の自主研究開発は、1969年のDE50形用DMP81ZエンジンおよびDW7液体変速機の完成でようやく実現をみた。
  3. ^ 1964年以前は新三菱重工業。
  4. ^ DD54形製造期間中には三原製作所ではED75・ED76・ED77・EF71形やEF30形・EF81形、それにDD51形といった国鉄機関車各形式を並行して生産している。
  5. ^ これは背の高いDMP86Zを収めるためでもあった。
  6. ^ DD54 12は公式側排障器にSGホース掛けを装備する。
  7. ^ DT131AはDD53形の推進用として1965年に製作されたDD20形2号機用台車に付番されている。
  8. ^ DOHC6バルブ、バンク角60°V型16気筒、ボア185mm×ストローク200mm、排気量85.973L、最大出力2000HP・1600rpm
  9. ^ 最高速度は95km/hのため同時期のEF65形500番台(P形・F形)などのような電磁自動空気ブレーキ指令用ジャンパ連結器設置や応速度編成増圧ブレーキ装置搭載は未施工。
  10. ^ DD54 1 - DD54 9・DD54 13・DD54 14・DD54 35
  11. ^ DD54 15 - DD54 18・DD54 21・DD54 26・DD54 34・DD54 36 - DD54 38
  12. ^ DD54 10・DD54 19・DD54 20・DD54 22・DD54 23・DD54 25・DD54 27・DD54 28・DD54 39・DD54 40
  13. ^ DD54 11・DD54 24・DD54 29・DD54 31
  14. ^ DD54 12・DD54 30・DD54 32・DD54 33
  15. ^ そのため、当初米子機関区に配置された後期製作車8両の内、先行して1972年に転属となったDD54 30以外の7両については、故障頻発が深刻化した1974年4月25日付で鷹取工場に近い福知山機関区へ転属の措置がとられている。
  16. ^ 事故車のDD54 2は修復され後に復帰。
  17. ^ 自動車を始めとする水冷エンジンサーモスタット潤滑系のバルブに用いられるワックスを充填したサーモエレメントの伸縮動作によるサーモアクチュエーターの一種。
  18. ^ 最初に製作され、結果的に本形式で最も長い期間使用されたDD54 1は、1966年6月24日新製配置、1976年6月30日廃車で、書類上新製から10年と数日で廃車となっている。
  19. ^ DD54 35。同車は1971年9月9日に米子機関区へ新製配置され、1974年4月25日に福知山機関区へ転属、1976年6月30日に変速機系の致命的な故障が原因で修理不能としてトップナンバーを含む初期車11両と共に廃車となっている。
  20. ^ 特に本形式の導入が開始された1966年当時の国鉄監査委員長が前三菱重工業社長の岡野保次郎であったことから、国鉄内で適切な意志決定がなされないままに総額約30億円におよぶ予算の無駄遣いがなされたのではないか、との指摘・追求が内藤功参議院議員からなされている。
  21. ^ 第87回国会、参議院 交通安全対策特別委員会 5号、昭和54年5月9日
  22. ^ 最後まで使用された4両中、「出雲」牽引を経験した車両はこのDD54 33のみであった。
  23. ^ 鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』2006年4月号(通巻474号)p83
  24. ^ 『交通科学博物館50年史』交通科学博物館、2013年、p.19
  25. ^ プロムナード”. 展示車両紹介. 京都鉄道博物館. 2015年6月7日閲覧。

参考文献編集

  • 『世界の鉄道'70』、朝日新聞社、1969年
  • 関崇博「列車暖房用装置を搭載した機関車と列車運行の一考察」『車両研究 1960年代の鉄道車両 鉄道ピクトリアル 2003年12月臨時増刊』、電気車研究会、2003年、pp.52-73
  • 石井幸孝『DD51物語-国鉄ディーゼル機関車2400両の開発と活躍の足跡』(JTBパブリッシング、2004年) ISBN 453305661X
  • 池口英司・梅原淳『国鉄型車両 事故の謎とゆくえ』(東京堂出版、2005年) ISBN 4490205635
    • 第6節(p57 - p69)で本形式を取り上げている。
  • 藤崎一輝『仰天列車』(秀和システム、2006年) ISBN 4798015474
    • p11 - p14にかけて本形式についての記述がある。
  • 塚本雅啓「寝台特急『出雲』も牽引したDD54形式ディーゼル機関車」
  • 沖田祐作 編 「機関車表 国鉄編II 電気機関車・内燃機関車の部」『レイル・マガジン 2008年10月号 No.301』、ネコ・パブリッシング、2008年10月(特別付録CD-ROM)
  • 石井幸孝「国鉄時代のディーゼル機関車開発をめぐって」

関連項目編集

外部リンク編集