土岐頼康
土岐 頼康(とき よりやす)は、南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃・尾張・伊勢守護。土岐氏の一族土岐頼清(頼宗)の長男で土岐頼貞の孫。明智頼兼、頼雄、康貞、直氏、頼忠の兄。子に娘(二条良基室)。養子に康行。
![]() 土岐頼康像 | |
時代 | 南北朝時代 |
生誕 | 文保2年(1318年) |
死没 | 元中4年/嘉慶元年12月25日(1388年2月3日) |
改名 | 頼康、善忠(法号) |
戒名 | 建徳寺節叟善忠 |
墓所 | 岐阜県揖斐川町瑞巌寺 |
官位 |
従四位下刑部少輔、蔵人、左近将監 大膳大夫 |
幕府 | 室町幕府侍所頭人、美濃・尾張・伊勢守護 |
主君 | 足利尊氏→義詮→義満 |
氏族 | 土岐氏 |
父母 | 父:土岐頼清(頼宗) |
兄弟 |
頼康、明智頼兼、頼雄、 康貞(久々利氏祖)、直氏、頼忠 |
子 | 二条良基室(二条師嗣母)、養子:康行 |
生涯編集
父の陣没後、土岐氏惣領の叔父土岐頼遠と共に若くして各地を転戦して南朝方と戦った。興国元年(1340年)、前年に越前で敗れて美濃国根尾城に籠っていた南朝方の脇屋義助を9月19日に叔父の頼遠等と共に攻め、脇屋義助は尾張に逃亡した。 興国3年/康永元年(1342年)に叔父の頼遠が光厳上皇に狼藉を働いたため処刑されると、惣領を継ぎ美濃守護となり、おなじく叔父頼明の補佐を受けた。正平8年/文和2年(1353年)、本拠地を長森城から革手城に移し、美濃の豪族斎藤氏を服従させた。土岐氏一族が南朝と結んで反乱を起こすがこれを打ち破って美濃を平定している。
頼康は「桔梗一揆」と呼ばれる土岐氏一族の強力な武士団を有しており、弟の頼雄、康貞、直氏、頼忠らを美濃各地に配して結束を強化した。観応の擾乱では室町幕府初代将軍足利尊氏を常に支持して武功があり、その功績によって正平6年/観応2年(1351年)に尾張守護職を与えられた。翌正平7年/文和元年(1352年)の八幡の戦いに参戦、正平8年/文和2年(1353年)、南朝方に攻められた足利義詮が後光厳天皇を奉じて京都を脱出すると領国の揖斐郡小島に迎え、頓宮を造営している(美濃行幸)。揖斐郡に八重垣神社が創建されたのもこの時期である。
正平8年/文和2年から翌年まで侍所頭人を務め、正平9年/文和3年(1354年)に評定衆に列する。正平13年/延文3年(1358年)に尊氏が死去すると出家して善忠と号した。正平15年/延文5年(1360年)に伊勢守護職を与えられ、頼康は東海道の要衝3ヶ国の守護を兼ねて土岐氏の最盛期を築き上げた。文武に優れ『新千載和歌集』・『新拾遺和歌集』・『新後拾遺和歌集』など勅撰和歌集に多くの和歌を残している。
頼康は尊氏以来の宿老として幕政に参与して重きをなした。3代将軍義満の管領細川頼之と対立して勝手に本国へ帰国し、義満から追討令を受けるが謝罪して許され政権に復帰している。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変において斯波義将・佐々木高秀らと共謀し、義満に進言して政敵の細川頼之を追放させた。
元中4年/嘉慶元年12月25日(1388年2月3日)、揖斐郡揖斐川町の瑞岩寺で死去[1]。甥で養子としていた康行が惣領を継いだが、将軍権力の強化を図る義満は勢力の強すぎる土岐氏一族の内紛を画策し、康行は挙兵に追い込まれ、幕府軍の追討を受けて没落した(土岐康行の乱)。康行の後は末弟の頼忠(康行の叔父)が美濃守護に任じられたが、土岐氏の力は大きく減じ、再び美濃一国の守護に逆戻りしてしまった。
脚注編集
- ^ 横山住雄「土岐氏の守護館をめぐって」『岐阜史学』71号、1980年。