土岐頼忠 (紀州)

戦国時代の武将。紀州土岐氏頼忠流の祖。土岐頼芸の四男

土岐 頼忠(とき よりただ)は、戦国時代武将紀州土岐氏頼忠流の祖である。異伝名に頼宗[5]・頼尚[6]、異伝号に休庵[7][8]・久庵[9]・道庵[10]・伏庵[6]など。

 
土岐頼忠
時代 戦国時代
生誕 天文12年(1543年[1]
死没 慶長7年12月5日1603年1月16日[2]
別名 四郎左衛門、刑部大輔
戒名 宗林院殿定仙
主君 豊臣秀吉
氏族 土岐氏
父母 父:土岐頼芸、母:六角定頼
兄弟 頼栄(頼秀)、頼充(頼光)[3]頼次(頼師)、頼忠頼元頼重頼香[4]朝倉義彰室、宇喜多秀家豪姫上臈番場殿(土肥氏室)、山名善孝
不明
一圭満蔵
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生涯 編集

天文12年(1543年)、土岐頼芸の四男として誕生。斎藤道三による土岐氏美濃追放の後、豊臣秀吉高家衆となる。美濃追放の時に生存していた 頼芸の男子は三名(頼次頼忠頼元)であった[11]。 晩年、泉州堺に隠居。道号、宗庵。慶長7年(1602年)12月5日、卒去。

系譜 編集

参考文献 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 紀州頼忠流七代光房(宗秀)による文化8(1811)年の奥付のある旧和歌山藩士土岐家伝来の巻子本。
  2. ^ 紀州頼忠流三代義虎(宗見)の書写本を文化元(1804)年に同じく七代光房(宗秀)が書写したと奥付のある旧和歌山藩士土岐家伝来の巻子本。系図は慶応3(1867)年まで記載があり、奥付は無いが、装丁からも明治期の書写と推測される。

出典 編集

  1. ^ 美濃明細記』。慶長7年(1602年)、60歳にて卒去とあるによる。
  2. ^ 宗秀本土岐家系譜』・『宗見本土岐家系譜』・『美濃明細記
  3. ^ 宗見本土岐家系譜』は頼充。「当屋形、土岐次郎。天文16(1547)年11月17日、家臣斎藤山城入道反逆之討死。生年二十四歳。」とある。また、『断家譜』は頼光。「次郎。天文16(1547)年丁未11月17日病歿。年二十四。」とある。
  4. ^ 宗見本土岐家系譜』に「土岐八郎。天文23(1554)年5月29日死。」、『断家譜』に「八郎。天文23(1554)年5月29日歿、号松源寺。」とある。他系図には頼芸兄弟に八郎頼香とも見え、混乱も推測される。
  5. ^ 美濃明細記』・『寛政重修諸家譜』・『断家譜
  6. ^ a b 系図纂要
  7. ^ 宗見本土岐家系譜』・『寛政重修諸家譜』・『断家譜
  8. ^ 史料稿本』慶長三(1598)年八月十四日、秀吉、大坂城番ノ部署ヲ定ム。項、〔慶長三年誓紙前書〕、二丸表門御門番に土岐休庵の名が見える。
  9. ^ 美濃明細記
  10. ^ 土岐累代記
  11. ^ 宗秀本土岐家系譜』・『宗見本土岐家系譜』・『美濃明細記』によれば、三名は関ヶ原の後、徳川家康によって駿府へ召し出されたが、頼忠は中症で歩けず、行けなかった。頼次頼元は「家柄格別の者」として徳川家高家衆となった。