土師百村
経歴 編集
養老5年(721年)元正天皇の詔により佐為王・紀男人・日下部老・山田三方・山上憶良・紀清人・越智広江・山口田主・楽浪河内・塩屋吉麻呂・刀利宣令らとともに、退朝後に教育係として皇太子首皇子(のちの聖武天皇)に侍することを命じられている(この時の位階は正七位上)[1]。
天平2年(730年)1月13日に「帥老」(そちのおきな)」の邸宅に集まって宴会を開いた際、列席した全員が庭の梅を題材にして短歌を詠み、土氏百村(はにし の ももむら)として詠んだ和歌が『万葉集』に1首掲載されている。なお、この時の百村の官職は大宰少監で、既に聖武天皇は即位しており、教育係としての役目も終了していたと想定される。
梅の花 咲きたる園の 青柳を 縵にしつつ 遊び暮らさな (梅の花の 咲いている園の 青柳を みんなかずらにしながら 遊び暮らそうよ)[2]