堀 久作ほり きゅうさく 1900年明治33年)7月8日 - 1974年昭和49年)11月14日)は、日本実業家映画会社・日活社長。

1955年

経歴 編集

久吉の長男[1]。8歳のとき父を亡くす[2]

父の死後、母親一人の手で育てられ、そのうえ財産といって別にあったわけではないから生活は楽でなかった[3]。親はささやかな荒物[4]商を営んで久作を学校へ通わせた[3]。苦学の末、大倉高商(現・東京経済大学)を出てから東北の小さな炭鉱の会計に入った[3]

山王会館専務を経て日活へ。日活の経営に携わるきっかけとなったのが、『東京瓦斯』(現『東京ガス』)の常務取締役など二十数社の役員を務めていた尊敬する経済界の重鎮・松方乙彦(元総理大臣松方正義の息子)の言葉である[5]。1934年7月、仕事で渡米していた松方は、軽井沢の『万平ホテル』に堀を呼び出す[5]。後に堀は、自身の著書で次のように記している[5]。「私にすぐ来いというので出かけると『堀、私はひとつ日本で映画事業をやりたいと思う[6]。米国へいってみると文化事業のうちでは新聞、ラジオ、映画が非常に発達している[6]。日本では新聞とラジオはやや発達しているが映画はほとんど問題にならぬ[6]。いま日活という会社がごたごたしているが、あれを引受けたらどうだろう』といわれた[6]

1945年、社長に挙げらる[1]1953年江の島水族館[7]1955年日活不動産、1960年天城カントリー倶楽部、小倉日活会館各社長に就任[1]。 1974年11月14日に死去。

人物像 編集

  • 日活の歴史に詳しい映画評論家の松島利行によれば「堀は経営を担当し、あまり撮影現場には口を出しませんでした[5]。俳優の発掘や映画製作を担ったのは、『自分の体を切ると日活の血が出てくる』と語っていた常務取締役江守清樹郎です[5]。このコンビがうまく機能したことで、日活は全盛期を迎えたのでしょう[5]。」という。
  • 1964年、石原プロと三船プロが共同制作で『黒部の太陽』制作を発表すると、五社協定を盾に強く反対する。しかし、三船との面談で「関西電力が映画の前売り券100万枚(当時の相場で3億5千万相当)の販売を保証してくれるが、配給を日活でどうか」と提案を受けると、方針を転換。周囲に苦しい説明をしつつも、石原裕次郎の出演を認めた。[8]

家族・親族 編集

堀家 編集

(東京都千代田区平河町[1]

長男は元日活社長堀雅彦1931年7月27日 - 1988年5月29日)、雅彦の妻(義娘)は江の島水族館新江ノ島水族館アクア・トトぎふ館長で江ノ島マリンコーポレーション代表取締役会長の堀由紀子、孫に江の島ピーエフアイおよび江ノ島マリンコーポレーション代表取締役社長の堀一久[7]がいる。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h 第廿一版 人事興信録 』(1961年、ほ一八頁)
  2. ^ 私の履歴書 経済人2』71頁
  3. ^ a b c 『私の履歴書 経済人2』72頁
  4. ^ 荒物とは、ほうき・ちり取り・ざるなど、簡単なつくりの家庭用品。
  5. ^ a b c d e f 「創業100年企業の血脈」第五回 日活「倒産危機を救った元ホテルマン社長の奇策」2012年05月26日、現代ビジネス
  6. ^ a b c d 『私の履歴書 経済人2』78頁
  7. ^ a b BizHint 編集部 (2023年12月26日). “社員の7割を入れ替えても成し遂げたV字回復。新江ノ島水族館に学ぶ組織づくりの本質”. 株式会社ビズヒント BizHint(ビズヒント). 2024年2月6日閲覧。 “堀 一久さん: 私が入社したのは2002年です。日活の社長でもあった祖父・堀久作が1954年に江の島水族館を開館して、およそ47年ほど経ち、老朽化した建物の建て替えが検討されていたタイミングでした。”
  8. ^ 松田美智子「三船敏郎の栄光とその破滅」(月刊文藝春秋 2013年11月号) より、改訂され『サムライ 評伝三船敏郎』(文藝春秋、2014年)。

参考文献 編集

  • 第廿一版 人事興信録 昭和36年(1961年)、ほ一八

関連項目 編集

外部リンク 編集


学職
先代
田尻常雄
学校法人東京経済大学
理事長

第2代:1957 - 1974
次代
金子佐一郎