堀江 景実(ほりえ かげざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将朝倉氏の家臣。

 
堀江景実
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
別名 左衛門三郎、利茂
官位 中務丞石見
主君 朝倉貞景孝景義景織田信長
氏族 堀江氏
父母 父:堀江景忠
兄弟 景実
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出自編集

堀江氏藤原利仁の後裔で、越前国坂井郡堀江郷に入って勢力を拡大したという[要出典]

略歴編集

堀江景忠の子として誕生[1]永正3年(1506年)、加賀一向一揆勢が九頭竜川北岸に迫ったため、朝倉貞景朝倉教景を大将に征伐を命じ、景実もこれに従って九頭竜川に布陣した[1]九頭竜川の戦い)。貞景の代より朝倉氏は一向一揆を警戒し、越前国加賀国の国境に関所を築いたが、景実はここで兵を率いて管理していたという[1]

永禄10年(1567年)、加賀の一揆と景実が結託して謀反を企てているという噂が流れると[1]、これを聞いた朝倉義景は激怒し家臣・魚住景固山崎吉家に命じて景実の討伐軍を繰り出した[1]。景実は父・景忠と共に約1,000余騎の兵で討って出て合戦に及んだ[1]。堀江勢は32人、朝倉勢は97人が討ち死にしたという[1]

のち大和田真孝の仲裁で合戦は収束し、堀江父子は能登国へ退去した[1]。前述の噂の内容通り、景実は一向一揆と手を組んでいたという[1]

天正3年(1575年)に織田信長が一揆討伐に出向いてくると、景実は信長に内通して一揆収束後は津葉城を任せられた[1]

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『戦国人名事典 コンパクト版』、697ページ

参考文献 編集

  • 阿部猛; 西村圭子編 『戦国人名事典』(コンパクト版) 新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9