堀田 一継(ほった かずつぐ、天文19年(1550年) - 寛永7年6月25日1630年8月3日))は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将豊臣政権の奉行衆の1人[1]

一縄の子。貞継一純の兄。一通の父。孫七、権右衛門。若狭守。は重武とも。

生涯編集

寛政重修諸家譜』によれば堀田正盛などを輩出した尾張国国人領主、堀田氏の庶流にあたる家柄の出。

はじめ織田信長に属したが、信長没後は羽柴秀吉に仕え、秀吉の元で鷹匠頭を務め、河内国近江国伊勢国などに合わせて5,000石の所領を与えられた。天正18年(1590年)、小田原征伐後北条氏が降伏した後、北条氏政北条氏照切腹の際には検使役を務めている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康に与して東軍につき、翌慶長6年(1601年)3月5日には3,880石を加増され8,880石の所領を持つ大身旗本となった。晩年は徳川秀忠の元で御伽衆に取り立てられている。

寛永7年(1630年)6月25日没。享年81。没後に所領は弟の一純などに分与され、子孫は約5,000石を領する旗本寄合席の旗本として残った。

脚注編集

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  1. ^ 守矢家文書』によるといわゆる五奉行とともに政務に携わった豊臣政権の十人衆として富田一白佐々行政寺西正勝毛利吉成堀田一継石田正澄片桐貞隆石川光元山中長俊木下延重の名が挙げられている

参考文献編集