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堀 直清(ほり なおきよ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将大名堀直政の長男。

 
堀直清
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正元年(1573年
死没 寛永18年9月29日1641年11月2日
改名 直次(初名)→直清[1]
別名 雅楽助→監物(通称
戒名 真雄院殿恍厳日喜大居士
主君 堀秀治忠俊
越後三条藩
氏族 堀氏
父母 父:堀直政
兄弟 直清直倶直寄直之直重直里直忠
正室:芳修院堀秀政の次女)
直昌直倫直友直勝直成直信直長、娘(伊坂某室)、娘(岩田某室)、娘(堀直利室)

目次

生涯編集

天正元年(1573年)、堀氏家臣・堀直政の長男として誕生。

堀宗家の当主・堀秀治忠俊に仕える。父・直政の名代として三条城主となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と共に東軍に属し、越後で発生した上杉氏残党による一揆の鎮圧に尽力した。8月4日、上杉方が土民を騙り、三条城を攻撃、直清は敵を数多く討ち取り撃退した。そののち一揆勢は越後の境である加茂山に砦を構え、9月8日、会津の兵3000余人とともに大崎へ出陣するが、直清は三条城より討って出て、敵将を討ち取り、徳川秀忠から賞賛された。

慶長13年(1608年)、父の死後に三条5万石の城主となり、堀家の執政職となる。ところが慶長15年(1610年)、僧侶殺害を弟・直寄徳川家康に訴えたため改易となる。

これは直清が一向宗の僧と宗論となって弾圧したため、その僧がやり方を非難して一揆を起こしかねない状況になり、首謀者を捕えて斬首したという。直政の妻の自性院は、この騒動が一向一揆に発展し、堀家の没落に発展しかねないと恐れ、自分の縁者に当たる秀忠の妻・お江の方に書状を送り善処を乞い、さらに直寄を使いに家康にも助力を求めた。家康は直政時代にはできなかった堀家除封の口実を得て、忠俊、利重、直清、直寄ら一族が駿府へ呼び出され、家康による裁定が行なわれた。忠俊は直清には非がないことを訴え、助命嘆願した。家康は「家中取締不十分」とし、忠俊から所領を没収、忠俊は磐城平鳥居忠政のもとへ配流、直清も所領没収、最上義光のもとへ配流となった。直寄は1万石の減封となった。

寛永18年(1641年)、死去。

その後編集

堀家除封の頃の堀家を取り巻く情勢を見ると、家康は外様大名の排除を着々と進めていた。上杉遺民一揆は堀家により鎮圧され、直江兼続与板衆は藩内で立場を失い、堀家への怨念もあったのかどうか不明である。堀家除封後、直江津福島城は廃城となり、松平忠輝高田城に入る。福島廃城、高田築城が忠輝の姻戚の伊達政宗の指揮によるのは何かの因縁か。僧侶との諍いはなぜ起きたのか、その僧侶は何者だったのか。真相は闇の中であるが、これらの情勢に鑑みると、堀家が越後国主であり続けることは極めて困難であったということが窺える。

直清の息子たちは、次男の主計直浄(家系図によっては直倫)は村上藩の叔父である直寄に仕え、村上除封後は新発田藩の溝口家に仕える。八男の主馬助直正(家系図によっては直信)は溝口宣直の母・長寿院の招きにより、新発田藩の溝口家に仕える。九男の新五左衛門直勝(家系図によっては直長)は信濃飯田藩の堀家に仕える。

脚注編集

  1. ^ 『寛永諸家系図伝』では直次となっている。『寛政重修諸家譜』のさい、村松堀家左京亮直方が幕府に提出した呈譜には直清とあり、『寛政譜』では系図は直次とし、註として「直方が呈譜に、直清に作る」と記されている。

参考文献編集