堀 親賢(ほり ちかかた)は、信濃飯田藩の第4代藩主。信濃飯田藩堀家5代。

 
堀親賢
時代 江戸時代中期
生誕 貞享元年8月12日1684年9月21日
死没 正徳5年11月28日1715年12月23日
墓所 東京都渋谷区広尾の祥雲寺
官位 従五位下、大和守、石見
幕府 江戸幕府
信濃飯田藩
氏族 堀氏
父母 堀親興、母:松雪院
堀親常
津軽信政娘・春台院
貞松院、自涼院
親庸親蔵片桐満紀正室、有馬氏久正室
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生涯編集

貞享元年(1684年)8月12日、旗本堀親興(初代藩主堀親昌の弟・親智の子)の長男として江戸に生まれる。元禄10年(1697年)に先代藩主の堀親常が嗣子なくして死去したため、その養嗣子となって跡を継ぎ、2万石を相続した[1]。親賢の相続を支援したのは5代将軍徳川綱吉御側御用人柳沢吉保だった[1]

元禄11年(1698年)ないしその翌年、「牛之助騒動」と呼ばれる事件が起きた。藩の用人である牛之助が親賢の世話で殿中の女中と結ばれ、その礼のために牛之助が登城した折、親賢の側室は髪を結っている最中であった。そのときに鏡越しに微笑みあった2人を見て、親賢は牛之助と側室が密通していると誤解し、別の家臣に命じて牛之助を殺害してしまい、その報を受けた牛之助の母は恨みのあまり狂死したというものである。

また元禄12年(1699年)5月、家臣の堀宇右衛門ら50人が暇を願い家中から去った。さらに宝永4年(1707年)、飯田で大地震(宝永地震)が発生、その翌月には富士山大爆発(宝永大噴火)による地震と降灰に見まわれ、震災復興費の借財のために大阪城加番として勤め始めた矢先の正徳5年(1715年)6月に「正徳のひつじ満水」と呼ばれる天竜川の大洪水が発生し、約4割の田畑を失うという大きな被害を受け、藩財政は破綻した[1]。このような中で同年7月、大坂加番に任じられたが、11月28日に中風が原因で死去した。享年32。跡を長男の親庸が継いだ。

系譜編集

  • 父:堀親興(1664-1703)
  • 母:松雪院
  • 養父:堀親常(1674-1697)
  • 正室:春台院 - 津軽信政の娘
  • 側室:貞松院 - 村井伊右衛門の娘
  • 側室:自涼院 - 井上甚五左衛門の娘
  • 生母不明の子女

関連項目編集

  • 菱田春草 - 先祖の蒔絵師・菱田市郎兵衛が二人扶持金四両の徒士並として飯田藩に臨時雇用される[1]

脚注編集

  1. ^ a b c d 菱田春草先祖の才能と堀飯田藩仕官の歴史的背景鈴川 博、飯田市美術博物館 研究紀要、2012年3月