塩原太助
塩原 太助(しおばら たすけ、寛保3年2月3日(1743年2月26日)[1] - 文化13年閏8月14日(1816年10月5日))は、三遊亭円朝の「塩原多助一代記」で有名な江戸時代の豪商。幼名は彦七。裸一貫から身を起こし、大商人へと成長。「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功をおさめた[2]。こうしたサクセスストーリーが、多くの人々の心をつかんだ。戦前には立志伝型人物として教科書にも登場した。
経歴
編集- 寛保3年(1743年) - 上野国利根郡新治村下新田(現在の群馬県みなかみ町)の農家、塩原角右衛門の子として生まれる。
- 宝暦11年(1761年) - 江戸に出る。
- 明和4年(1767年) - 『角右衛門人別帳』に「男子彦七、江戸南伝馬町味そ屋太郎兵衛方へ酉より八年期奉公」とある[3]。
- 神田佐久間町の炭屋山口屋善右衛門のもとで奉公。勤勉な働きぶりで蓄財に励む。
- 天明2年(1782年) - 独立して本所相生町二丁目堅川畔に店舗を構え[4]、大商人に成長。
- 木炭の粉に海藻を混ぜ固めた炭団を発明し大成功する[5]
- 富豪になってからも謙虚な気持ちで清潔な生活を送り、私財を投じて道路改修や治水事業などを行った。塩原太助が贅沢を戒めた逸話は、『宮川舎漫筆』に記録がある[6]。
- 文化13年(1816年) - 死去。墓は万年山東陽寺(足立区登録有形文化財)[7]。戒名は盬原壽算居士。
奉納・寄進
編集後世
編集- 二代目は放蕩息子で、塩原家は没落したと伝えられるが、生家はみなかみ町に存続している。
- 1878年、三遊亭圓朝が太助をモデルにして「塩原多助一代記」を創作し[8]、1891年明治天皇の御前で演じた[8]。1885年「塩原多助一代記」が出版され[9]、12万部という驚異的なベストセラーになる[10]。また、1892年には歌舞伎『塩原多助一代記』が初演される[8]。
- 1928年 関東大震災の復興事業として墨田区竪川に「塩原橋」が架けられた。国道17号沿いに塩原太助公園が整備される。
- 1947年 上毛かるたに取り上げられる(「沼田城下の・・・」[11])。
- 1994年 生誕250年記念として、塩原太助公園に愛馬「青」とともに銅像が建立される。
塩原太助を扱った作品
編集歌謡曲
編集- 長編歌謡浪曲 塩原多助 (三波春夫)
映画
編集関連施設
編集- 太助の郷(群馬県利根郡みなかみ町新巻497) - 資料館、農産物直売所[12]。
- 塩原太助生家(同)[13]
- 塩原太助馬つなぎの松(群馬県吾妻郡高山村中山) - あおとの別れの際につないだ松で、現在のものは2代目にあたる[14]。
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太助の郷
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渋沢栄一揮毫の記念碑
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報徳太助神社
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太助ドライブイン
脚注
編集- ^ 大野 2018, p. 24.
- ^ みなかみ町観光協会. “塩原太助翁記念公園(塩原太助生家) 自然・旧跡 みなかみ町観光協会 みなかみパーフェクトガイド”. www.enjoy-minakami.jp. 2022年5月5日閲覧。
- ^ 大野 2018, pp. 44–45.
- ^ 大野 2018, p. 47.
- ^ 猪名川町「いながわ歴史ウォーク > 第69話 木炭製造と炭団」
- ^ 宮川舎/政運『宮川舎漫筆』 。
- ^ “塩原太助の墓”. 足立区. 2022年8月22日閲覧。
- ^ a b c 三遊亭円朝『塩原多助一代記』岩波書店、1957年6月、241-250頁。
- ^ 中込重明『拾い物立身譚 : 藁しべ長者から塩原多助へ』法政大学国文学会、1999年7月10日。doi:10.15002/00020068 。2022年5月5日閲覧。
- ^ 坂本麻裕子『明治修身教科書における子どもの倫理 : 二宮金次郎と塩原多助』名古屋大学大学院国際言語文化研究科日本言語文化専攻、2012年2月17日。doi:10.18999/isslc.13.45 。2022年5月5日閲覧。
- ^ “NO.164 上毛かるた 「ぬ」の札(2015年12月号)”. コープぐんま. 2021年5月8日閲覧。
- ^ “太助の郷”. 全国観るなび. 日本観光振興協会. 2021年5月8日閲覧。
- ^ “塩原太助生家”. 全国観るなび. 日本観光振興協会. 2021年5月8日閲覧。
- ^ “塩原太助馬つなぎの松”. 全国観るなび. 日本観光振興協会. 2021年5月8日閲覧。
参考文献
編集- 大野富次『塩原太助―その実像と真実』叢文社、2018年。ISBN 978-4-7947-0775-8。