塩水港精糖
日本の企業
塩水港精糖株式会社(えんすいこうせいとう)は、砂糖の製造販売を行う日本の製糖会社。
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | |
本社所在地 |
![]() 〒103-0012 東京都中央区日本橋堀留町2-9-6 |
設立 | 1950年7月1日 |
業種 | 食料品 |
法人番号 |
7010001079324 ![]() |
事業内容 | 砂糖の製造販売、不動産業 |
代表者 | 代表取締役会長兼社長 久野修慈 |
資本金 | 17億50百万円(2020年3月31日現在) |
売上高 |
単体189億11百万円 連結256億59百万円 (2020年3月期) |
純資産 |
単体84億8百万円 連結89億3百万円 (2020年3月31日現在) |
総資産 |
単体233億78百万円 連結245億30百万円 (2020年3月31日現在) |
従業員数 |
単体50人、連結87人 (2020年3月31日現在) |
決算期 | 3月 |
主要株主 |
三菱商事 14.72% みずほ銀行 4.99% (2020年3月31日現在) |
主要子会社 | パールエース |
外部リンク | https://www.ensuiko.co.jp/ |
概要編集
『パールエース』印の砂糖で知られる。
1903年(明治36年)に台湾塩水港庁下岸内庄(現・台南市塩水区)に現地資本により設立された「塩水港製糖会社」が源流。日本で3番目に古い伝統を持つ製糖会社である[1]。
1907年に旧「塩水港製糖会社」を継承して株式会社として再編され、台湾島内で7工場が稼働、台湾四大製糖会社の一つに発展した[2][3]。創業時より資本参加し、最盛期には筆頭株主であった鈴木商店が1927年に破綻したことにより、主力工場(旗尾、恒春)は台湾製糖に移譲された[2]。第二次世界大戦後、塩水港製糖の日本国内の資産を継承して1950年に「塩水港倉庫」が設立され、まもなく商号変更されて「塩水港精糖」が誕生した[2]。台湾の塩水港製糖(岸内製糖所)は、終戦後、国民政府による接収の後、台湾糖業公司の経営に移ったが、2002年に操業が停止された[3]。
また、台湾での創業から社名がそのまま単独で受け継がれている、数少ない企業の一つである[4]。
1964年(昭和39年)から大洋漁業(現在のマルハニチロ)と資本提携を行っていた。2005年(平成17年)3月には傘下を離脱、新たに三菱商事の系列となった。
澱粉を原料としたサイクロデキストリン(環状オリゴ糖)に関する技術を有し、開発した商品は甘味料における「オリゴ糖」ブームのきっかけともなった。
沿革編集
- 1903年(明治36年)12月 臺灣鹽(塩)水港廳岸内庄で(旧)鹽水港製糖會社(商法によらない台湾人のみの組合組織、資本金30万円)が創立。台湾総督府糖務局台南支所長堀宗一(技師長、後に塩水港製糖の常務取締役に)の折衝で南部巨商の王雪農が社長に就任[6]。
- 1906年(明治39年)支配人に槇哲が就任して赤字を整理し、配当始まる[6]
- 1907年(明治40年)3月 社名を鹽水港製糖とすると共に、東京株式市場に上場する。社長に荒井泰治、常務に槇哲(1917年より社長)就任[6]。
- 1908年(明治41年)販売特約店として、鈴木商店(神戸)、安部幸兵衛商店(横浜)、大阪糖業(大阪)の3社を指定[6]
- 1910年(明治43年)姉妹会社である高雄の高砂製糖株式会社を合併[7]
- 1909年(明治42年)5月20日 軽便鉄道規格の専用線新営庄-塩水港間旅客営業開始、台湾最初の糖業旅客鉄道。12月には、岸内工場で耕地白糖製造に成功[6]。
- 1911年(明治44年) 岸内第2工場に大規模な耕地白糖設備を設置し増産体制へ[6]
- 1914年(大正3年) 拓殖事業を開始し、台湾東部開拓のパイオニアとなる[6]
- 1927年(昭和2年)大株主の鈴木商店破綻。高雄の2工場を台湾製糖に売却[6]
- 1928年(昭和3年)疑獄事件により槇哲社長引責辞任し、入江海平が社長となるも1年で辞任[8]
- 1931年(昭和6年)槇哲、相談役として復帰(のち社長)[8]
- 1938年(昭和15年)新日本砂糖工業(資本金2,500万円)を設立し、国策パルプの製造を開始[6]
- 1939年(昭和16年)社長に岡田幸三郎就任[6]
- 1945年(昭和20年)11月 台湾における資産が国民政府に接収された(現台湾糖業公司)。
- 1950年(昭和25年)7月 大阪府大阪市において(旧)鹽水港製糖會社の資産を引き継ぎ、塩水港倉庫株式会社として設立。
- 1950年(昭和25年)8月 塩水港精糖株式会社に改称。
- 1951年(昭和26年)1月 大阪市此花区において精糖事業を復活。
- 1961年(昭和36年)10月 東京証券取引所第2部に上場。
- 1963年(昭和38年)8月 粗糖輸入自由化実施。
- 1964年(昭和39年)8月 大洋漁業株式会社(現在のマルハニチロ)と資本提携。
- 1966年(昭和41年)3月 神奈川県横浜市に横浜工場竣工。
- 1969年(昭和44年)4月 業績悪化に伴い(旧)大阪工場閉鎖。
- 1973年(昭和48年)1月 大阪府泉佐野市に大阪工場竣工。大阪での生産を再開。
- 1979年(昭和54年)7月 大阪工場を大新製糖株式会社に譲渡。
- 1982年(昭和57年)4月 農林水産省食品総合研究所と共同して、サイクロデキストリンの研究に着手。
- 1982年(昭和57年)4月 エントウ産業株式会社(後の株式会社イーエス)設立。
- 1983年(昭和58年)10月 東洋精糖株式会社と業務提携し、太平洋製糖株式会社を設立。横浜工場を賃貸し、翌年1月に共同生産開始。
- 1983年(昭和58年)10月 サイクロデキストリンの生産を開始。
- 1990年(平成2年)11月 乳果オリゴ糖の生産を開始。
- 1992年(平成4年)3月 乳果オリゴ糖の市販用製品販売開始。
- 1993年(平成5年)10月 大新製糖株式会社を吸収合併。
- 1995年(平成7年)10月 乳果オリゴ糖「オリゴのおかげ」厚生省「特定保健用食品」標示許可取得。
- 1997年(平成9年)5月 「横浜・さとうのふるさと館」開館(2004年5月閉館)。
- 1997年(平成9年)6月 株式会社横浜国際バイオ研究所設立。研究部門を分離。
- 2001年(平成13年)3月 東洋精糖、日本精糖(現フジ日本精糖)と業務提携し、太平洋製糖株式会社で10月共同生産開始。9月横浜工場を太平洋製糖株式会社へ譲渡。
- 2001年(平成13年)10月 大日本明治製糖と業務提携(11月大東製糖が参加)し、2002年3月に関西製糖株式会社を設立。大阪工場を賃貸し、2002年7月に共同生産開始。
- 2005年(平成17年)3月 マルハとの資本提携解消。三菱商事と資本提携。パールエースの株式取得[9]。
- 2011年(平成23年)1月 (旧)株式会社パールエースをパールエース株式会社に商号変更。パールエース株式会社から(新)株式会社パールエースを新設分割で設立し、パールエース株式会社を吸収合併。株式会社イーエスを吸収合併。
- 2014年(平成26年)1月 東京証券取引所第1部に指定替え。
関係会社編集
連結子会社編集
- パールエース(東京都中央区)(食品事業)
- パールフーズ(東京都中央区)(食品事業)
関連会社編集
関連項目編集
脚注編集
- ^ 塩水港精糖株式会社公式ホームページより
- ^ a b c 製糖鈴木商店記念館
- ^ a b 塩水港製糖(岸内製糖所)鈴木商店記念館
- ^ 台湾製糖の流れを持つ、三井系の「台糖株式会社」もあるが、戦後の一時期に社名が台湾とは関係ない名前になっている。また同じく台湾で創業した明治製糖も、内地で創業の大日本製糖と合併している
- ^ 原鹽水港製糖株式會社總社辦公室国家文化資産網、文化部文化資產局
- ^ a b c d e f g h i j 塩水港製糖の失敗と再生─大日本製糖の事例を念頭に久保文克、第47回経営史学会全国大会自由論題報告、2011年10月15日
- ^ 【高雄 おすすめ 穴場】110年の歳月を経て唯一現存する旗尾線の「旗山駅」- 糖鉄故事館台湾ストーリー、2020.09.10
- ^ a b 塩水港製糖株式会社の失敗と再生(II)―企業者槇哲の挫折と復活久保文克、商学論纂、中央大学商学研究会、2013-10-30
- ^ マルハはパールエースを通じて塩水港精糖の発行済み株式50.18%を持っていたが、その内24%を三菱商事に30億円弱で譲渡し、パールエース株式全部を塩水港精糖に売却した。
- ^ 拓殖大学創立120周年記念式典が挙行されました拓殖大学、2020年11月16日