壱岐 (海防艦)

大日本帝国海軍の海防艦

壱岐(いき)は、日本海軍海防艦。普遍的には択捉型海防艦の6番艦とされているが、海軍省が定めた公式類別では占守型海防艦の10番艦。この名を持つ帝国海軍の艦船としては、ロシアからの戦利艦である戦艦壱岐に続いて二代目。

壱岐
基本情報
建造所 三井造船玉野造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 海防艦
級名 占守型海防艦
建造費 5,112,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 マル急計画
起工 1942年5月2日
進水 1943年2月5日
竣工 1943年5月31日
最期 1944年5月24日被雷沈没
除籍 1944年7月10日
要目(竣工時)
基準排水量 870トン
全長 77.70m
最大幅 9.10m
吃水 3.05m
主機 艦本式22号10型ディーゼルx2基
推進 2軸
出力 4,200hp
速力 19.7ノット
燃料 重油200トン
航続距離 16ノットで8,000海里
乗員 定員146名[注釈 1]
兵装 三年式45口径12センチ単装速射砲x3基
25mm連装機銃x2基
九四式爆雷投射機x1基
爆雷x36個
搭載艇 短艇x4隻
ソナー 九三式水中聴音機x1基
九三式水中探信儀x1基
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目次

艦歴編集

竣工まで編集

マル急計画の海防艦甲、第310号艦型の6番艦、仮称艦名第315号艦として計画。1942年昭和17年)5月2日三井造船玉野造船所で起工。1942年12月25日、壱岐と命名。1943年(昭和18年)2月5日進水。5月15日、艤装員長に中尾九州男少佐が着任。5月17日に艤装員事務所を設置。5月31日、竣工。中尾大尉(壱岐艤装員長)は壱岐海防艦長となる。同日附で、壱岐艤装員事務所は撤去された。壱岐は呉鎮守府籍となり、呉鎮守府警備海防艦として呉海上防備戦隊に編入された。

昭和18年の行動編集

1943年(昭和18年)6月1日、壱岐は玉野造船所からに移動。10日、佐伯へ向け呉を出港。同日早朝、北緯31度25分 東経132度25分 / 北緯31.417度 東経132.417度 / 31.417; 132.417宮崎県細島沖で[1]給油艦石廊が米潜ティノサ(USS Tinosa, SS-283)の雷撃を受けて損傷する。11日、壱岐は敷設艇怒和島と共に石廊に合流し、対潜掃討を行う。0900、潜水艦を探知して爆雷攻撃を行う。その後、パラオから横浜に向かっていたサイパン丸日本郵船、5,533トン)他輸送船2隻と護衛の水雷艇、敷設艇由利島第31号哨戒艇からなるP607船団の護衛に怒和島と共に加わる。都井岬沖で湖南丸大阪商船、2,627トン)、特設運送船南海丸(大阪商船、8,416トン)が船団に合流。壱岐は途中で船団から分離し、13日に佐伯に到着した。16日、佐伯を出港して対潜哨戒を行い、17日に佐伯に戻った。

20日、壱岐は陸軍輸送船和浦丸(三菱汽船、6,804トン)他輸送船6隻からなるオ007船団を水雷艇鳩、掃海艇第18号と共に護衛して佐伯を出港。22日、第18号掃海艇が分離。29日、船団はパラオに到着。

7月6日、和浦丸単独で編成されたフ601船団を護衛してパラオを出港。10日、怒和島が船団に合流。11日、船団は佐伯に到着。13日、佐伯から呉に移動。20日、呉から佐伯に移動。24日、和浦丸他輸送船5隻からなるオ406船団を由利島、特設掃海艇第8拓南丸(日本水産、343トン)の護衛で佐伯を出港。26日、由利島と第8拓南丸が分離。8月2日、鳩が合流。同日、パラオに到着。

8月5日、豊岡丸(鏑木汽船、7,097トン)他輸送船6隻からなるフ507船団を護衛してパラオを出港。13日、特設掃海艇第8拓南丸、第7玉丸(西大洋漁業、275トン)が船団に合流。14日、船団は佐伯に到着。15日、佐伯から呉に移動。22日、呉を出発して松山に到着。23日、松山から佐伯に移動。 その後、陸軍特殊船摩耶山丸三井船舶、9,433トン)他輸送船2隻からなるオ603船団を第33号掃海艇と共に護衛して佐伯を出港。24日、第33号掃海艇が分離。9月1日、船団はパラオに到着。

9月7日1030、陸軍輸送船でらごあ丸(日本郵船、7,148トン)他輸送船5隻からなるフ706船団を護衛してパラオを出港。16日、第34掃海隊(特設掃海艇葵丸(昭和興業、390トン)、甲山丸(神戸桟橋、277トン)、やちよ丸(加藤シゲ、271トン)、第10徳豊丸(元山運輸商事、353トン))他特設監視艇2隻が合流。17日、船団は佐伯に到着。21日、貨物船だかあ丸(日本郵船、7,170トン)他輸送船8隻からなるオ209船団を第34掃海隊、特設掃海艇第3拓南丸(日本海洋漁業統制、343トン)と共に護衛して佐伯を出港。22日に甲山丸と第10徳豊丸が、23日に葵丸、やちよ丸がそれぞれ分離。10月2日、船団はパラオに到着。

10月5日、貨物船門司丸(日本郵船、3,757トン)他輸送船5隻からなるフ506船団を護衛してパラオを出港。14日、特設掃海艇やちよ丸、大井丸(三菱汽船、397トン)、第7玉丸(西大洋漁業、275トン)が合流。15日、船団は佐伯に到着。同日、12日未明に第3009甲船団参加中に父島の西南西300海里北緯28度30分 東経137度28分 / 北緯28.500度 東経137.467度 / 28.500; 137.467地点[2]で米潜セロ(USS Cero, SS-225)に雷撃されて航行不能となっていた給糧艦間宮とそれを曳航する朝風丸(山下汽船、6,517トン)の護衛のため、水雷艇、特設掃海艇大井丸、第7玉丸、多摩丸(三共海運、396トン)と共に佐伯を出港[3][4][5]。間宮は朝風丸[6](17日より潜水母艦迅鯨)に曳航され[7]、19日に呉に到着した[8][9]。24日、呉から佐伯に移動。25日、貨物船うゑいるす丸(川崎汽船、6,586トン)他輸送船6隻からなるオ507船団を特設掃海艇多摩丸、大井丸、第7玉丸と共に護衛して佐伯を出港。26日、第7玉丸、多摩丸、大井丸が分離。11月2日、第9号、第10号駆潜特務艇が合流。3日、第22号駆潜特務艇、特設駆潜艇昭和丸(日本海洋漁業統制、187トン)が船団に合流。11月4日、マラカラル水道沖[10]で、船団は米潜艦トートグ(USS Tautog, SS-199)に発見される。1045、トートグは魚雷4本を発射してきたが、いずれも命中しなかった[注釈 2]。すぐさま護衛艦が爆雷5発を投下したが、トートグに被害はなかった。同日、船団はパラオに到着。

11月7日1000、陸軍輸送船西豊丸(大連汽船、4,639トン)他輸送船2隻からなるフ703船団を護衛してパラオを出港。15日、水雷艇鷺が船団に合流。16日、船団は佐伯に到着した。その後、壱岐は六連島泊地に移動。21日0900、建造途中の空母伊吹とそれを曳航する潜水母艦迅鯨電纜敷設艇大立と共に護衛して六連島泊地を出港。22日、佐世保に到着。23日、壱岐は佐世保から平戸島に移動。24日、平戸島から佐伯に移動。27日0800、貨客船サマラン丸(南洋海運、4,013トン)他輸送船2隻からなるオ703船団を特設掃海艇大井丸、第6玉丸(西大洋漁業、275トン)と共に護衛して佐伯を出港。28日、大井丸と第6玉丸が分離。12月7日、船団はパラオに到着。

12月10日1000、うゑいるす丸他輸送船3隻からなるフ004船団を護衛してパラオを出港。20日1300、船団は佐伯に到着。21日、壱岐は佐伯から呉に移動。28日、呉を出港。29日、呉に帰投。30日、呉から佐伯に移動。31日2300、陸軍特殊船にぎつ丸(日本海運、9,547トン)を第34号駆潜艇と共に護衛して佐伯を出港。1944年(昭和19年)1月6日1200にパラオに到着した。

昭和19年の行動編集

1944年(昭和19年)1月11日1400、貨物船隆亜丸(山本汽船、1,925トン)他輸送船2隻からなるフ203船団を敷設艇怒和島と共に護衛してパラオを出港。24日、船団は北緯32度39分 東経134度00分 / 北緯32.650度 東経134.000度 / 32.650; 134.000の地点で米潜スタージョン(USS Sturgeon, SS-187)に発見される。スタージョンは悪天候の中2度の攻撃を行う。最初の攻撃で敵艦に対して魚雷1本を命中させ、0225に行われた2度目の攻撃で陸軍輸送船朝鮮丸(大阪商船、3,110トン)に魚雷が命中し、同船は沈没した。壱岐は反撃をしなかった。同日、怒和島が分離。25日、船団は佐伯に到着。28日、壱岐は佐伯を出港し、29日に呉に到着。

2月15日、呉から門司に移動。19日、門司から六連島泊地に移動。同日1500、1K型戦時標準貨物船日鈴丸(日産汽船、5,396トン)他輸送船7隻からなるモタ05船団を護衛して六連島泊地を出港。途中、陸軍徴用船竹川丸(川崎汽船、1,931トン)が分離して上海に向かった。23日未明、船団は北緯26度20分 東経126度11分 / 北緯26.333度 東経126.183度 / 26.333; 126.183久米島近海で米潜ポーギー(USS Pogy SS-266)に発見される。0510、ポーギーは先頭と二番目の輸送船に対して魚雷を4本発射し、30分後にもう4本発射[11]。うち、最初に発射した魚雷が貨物船宝嶺丸(東亜海運、5,588トン)とタンカー帝坤丸(帝国船舶、5,113トン)に命中し、宝嶺丸は逓信省標準船K型貨物船昭南丸(日本製鐵、5,401トン)に、帝坤丸は別の船に那覇港へ曳航されたが、宝嶺丸は25日に港外で荒天を避けるべく避泊中、船体が切断し座礁沈没した[12]。同日、貨物船暁光丸(山下汽船、5,342トン)が空爆を受けて爆発し、沈没した。26日1850、船団は高雄に到着。27日深夜、壱岐は特設運送船(給油)あまつ丸(石原汽船、10,568トン)他輸送船9隻からなるヒ47船団を海防艦択捉佐渡と共に護衛して高雄を出港。日付が3月3日になってすぐ、船団は17,500ヤード(約16キロ)先にいた米潜ブルーフィッシュ(USS Bluefish SS-222)のレーダーに探知される[13]。ブルーフィッシュは間合いを取って追跡を行い、明け方には先頭船と二番船に対して魚雷を3本ずつ計6本発射し、反転し三番船に対して艦尾発射管から魚雷を4本発射するも、全て外れた[14]。魚雷は特設運送船能代丸日本郵船、7,189トン)に向かったが回避された[15][16]。一度はヒ47船団との接触が途絶えるが、翌3月4日未明に再び発見[17]。前日同様に接敵し、明け方に北緯05度29分 東経108度46分 / 北緯5.483度 東経108.767度 / 5.483; 108.767の地点で艦尾発射管から魚雷を3本発射[18]。魚雷は特設運送船(給油)大峯山丸(三井船舶、10,536トン)に2本から3本命中し、大峯山丸はわずかに船首を海面上に突き出した状態で沈没した[19]。5日1100、船団は昭南に到着した。

3月11日0730、壱岐は特設運送船(給油)厳島丸日本水産、10,006トン)他輸送船13隻からなるヒ48船団を海防艦占守、択捉、三宅と共に護衛して昭南を出港。14日、特設運送艦の讃岐丸(日本郵船、9,246トン)が北緯10度31分 東経105度04分 / 北緯10.517度 東経105.067度 / 10.517; 105.067の地点で触雷し小破[20]。同日1700、船団はバンフォン湾に到着。15日1100、船団はバンフォン湾を出港。 17日夜、船団は北緯19度00分 東経117度30分 / 北緯19.000度 東経117.500度 / 19.000; 117.500の地点で米潜レイポン(USS Lapon SS-260)に発見される[21]。3月18日0114にいたり、北緯19度24分 東経116度50分 / 北緯19.400度 東経116.833度 / 19.400; 116.833の地点でレイポンは魚雷を4本発射し、特設運送船北陸丸(大阪商船、8,365トン)の左舷に2本目から4本目の魚雷が命中。北陸丸は大爆発を起こして4分で沈没した[22][23]。同日、陸軍輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)と第31号哨戒艇が合流。19日0600、占守が座礁するが、自力で離礁。1600、船団は高雄に到着。20日1300、船団は高雄を出港。25日0500、船団は門司に到着。0700、壱岐は占守と共に門司を出港し、1650に佐世保に到着。その後門司に戻った。

4月1日、厳島丸他輸送船8隻からなるヒ57船団を空母海鷹、海防艦択捉、第8号9号、水雷艇鷺と共に護衛して門司を出港。2日、悪天候のため船団は門司に引き返した。3日0600、船団は再度門司を出港。7日、船団は高雄に到着。8日、船団は高雄を出港。12日1930、船団はカムラン湾に到着。13日1200、船団はカムラン湾を出港。16日1240、船団は昭南に到着。20日、壱岐は第1海上護衛隊に編入。21日0700、厳島丸他輸送船7隻からなるヒ58船団を空母海鷹、海防艦択捉、第8号、9号と共に護衛して昭南を出港。5月3日0725、船団は門司に到着。同日、壱岐は門司を出港し、1800に佐世保に到着して修理を受ける。

沈没編集

5月7日1825、壱岐は佐世保を出港し、8日1230に門司に到着。13日0400、特設運送艦讃岐丸他輸送船10隻からなるヒ63船団を海防艦松輪、第9号、15号と共に護衛して門司を出港。この時、壱岐には第一護衛船団司令部が乗艦しており、船団の旗艦となっていた。18日1800、船団はマニラに到着。陸軍特殊船吉備津丸(日本郵船、9,574トン)他輸送船2隻が同地で分離。20日2000、船団はマニラを出港。日付が24日に変わったちょうどその時、船団は北緯01度15分 東経108度03分 / 北緯1.250度 東経108.050度 / 1.250; 108.050の地点で米潜レイトン(USS Raton SS-270)に探知される[24]。レイトンは艦尾発射管から魚雷を4本発射し、間を置いてさらに艦首発射管から魚雷を6本、艦尾発射管から魚雷を4本発射[25]。目標は輸送船に設定してあったが、魚雷は最初に発射したものが0220に壱岐の艦尾と艦橋下部に1本ずつ命中[26][27]。壱岐は艦体を3つに分断されて20分で沈没した[26]。松輪が反撃に出たものの[28]、レイトンに被害はなかった。択捉が生存者18名を救助し、27日に船団は昭南に到着した。

第一護衛船団司令部司令伊集院松治少将、海防艦長中尾九州男少佐以下乗員160名が戦死した。沈没地点はボルネオ島サラワク州沖150浬地点付近、北緯01度17分 東経107度50分 / 北緯1.283度 東経107.833度 / 1.283; 107.833

1944年(昭和19年)7月10日に除籍された。

時が流れた2004年平成16年)、ダイビング中のダイバーが水深50mの地点で右舷に横転している壱岐の艦首部分を発見した。その後周囲を捜索したが、他の部分は発見できなかった。

海防艦長編集

艤装員長
  1. 中尾九州男 少佐:1943年5月15日[29] - 1943年5月31日
海防艦長
  1. 中尾九州男 少佐:1943年5月31日[30] - 1944年5月24日 - 戦死。同日、海軍中佐に特進。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ これは法令上の定員数であり、特修兵、その他臨時増置された人員を含まない。
  2. ^ この攻撃でトートグは第30号駆潜艇を撃沈したと判断し(#SS-199, USS TAUTOG, Part 2p.104)、後に公認されたが(#Roscoe p.559)、本物の第30号駆潜艇は1944年12月24日にバーベロ (USS Barbero, SS-317) の雷撃により喪失している。

出典編集

参考文献編集

外部リンク編集