夏姫(かき、紀元前300年 - 紀元前240年)は、中国戦国時代孝文王側室の一人で実子の荘襄王即位後に秦の王太后となる。姓およびや生地は共に不明。始皇帝嬴政の祖母。

夏姫
の王后
在位 紀元前251年

別称 夏太后
死去 紀元前240年
埋葬秦始皇祖母陵中国語版
配偶者 孝文王
子女 荘襄王
氏族 夏氏
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経歴編集

紀元前281年、秦の昭襄王の後の太子安国君こと公子柱[1](後の孝文王)のとして、異人(後の荘襄王)を産むがその寵愛を失い、異人はへの人質として趙の首都邯鄲に送られる。

安国君には夏姫の産んだ異人の他にも20人近い公子が居たが、呂不韋の活動により安国君の正室である華陽夫人に異人が養子として迎えられ[2]、次の秦の太子となる事が決まる。

紀元前250年、孝文王が即位後3日で卒去して子楚が荘襄王として秦王に即位すると子楚の養母である華陽夫人が華陽太后となり、生母の夏姫も夏太后と呼ばれることになる。

紀元前240年、卒去。

陵墓編集

陵墓は2006年に発見された陝西省西安市長安区南郊にある神禾塬大墓(秦始皇祖母陵中国語版)と推定される。

孝文王の陵墓である寿陵(現在の陝西省西安市臨潼区)には正室の華陽夫人が合葬されることが決まっており、先に亡くなっていた子の荘襄王は芷陽(現在の陝西省西安市長安区)に埋葬されていた。夏太后は東に我が子の墓を西に我が夫の墓を望める地への埋葬を希望し、そこに自らが埋葬される事でその地が百年の後に万戸の城邑として栄える事を預言したと言う[3]

墓の総面積は105ヘクタール。南北550メートル、東西310メートルで秦の景公の陵墓である秦公1号墓に次ぐ第二の規模である[4]

参考文献編集

脚注編集

  1. ^ 実際に太子となるのは紀元前265年
  2. ^ この時異人は子楚と改名
  3. ^ 『史記』呂不韋列伝
  4. ^ 華商報 (2006年8月15日). “秦始皇祖母陵漸露真容(アーカイブへのリンク)”. 网易. 2020年9月13日閲覧。