外食券食堂(がいしょくけんしょくどう)は、1942年米穀配給通帳制度に伴い制度化された日本の食堂。食糧事情が逼迫した戦後も続けられ、1951年に民生食堂に発展的解消を遂げた。

概要 編集

1942年(昭和17年)、米穀配給通帳(通称、米穀通帳)制度が発足。家庭で使用するコメが配給制になると、自炊をしない者(工場労働者行商人など)に対して米穀通帳と引き換えに外食券を交付し、外食券食堂で食事が摂れる制度が都道府県により整えられた[1]。一方、食堂側は客の持ってきた外食券に応じて業務用米の供給を受けることができた。

発足当初は外食券食堂でも外食券無しで食事をとることができたり、外食券食堂以外の店でも客から外食券を受け取り、業務用米の配給を受けるなど規制の緩さは残されていた。また、外食券は甲券(米飯量75匁)、乙券(同90匁)、丙券(125匁)に分かれていたが、額面通りに運用されていなかった。しかし、戦局が悪化し始めた1944年(昭和19年)4月10日以降は規制が強化され、外食券食堂は外食者専用食堂として外食券を持たない者は締め出し、外食券食堂以外の店への米の配給は停止された。一方で、わずかに食券無しでも食事がとれる雑炊食堂の制度は残された[2]

第二次世界大戦後も日本国内の食糧事情は逼迫し、米穀通帳とともに外食券および外食券食堂の制度は続けられた。 むしろ1947年(昭和22年)7月1日には飲食営業緊急措置令が発布、主食を販売できる店を外食券食堂に限るなど制度は強化されたが、実際には多くの店が表向き閉店しながら裏口営業を続けたため実効性は乏しかった[3]1949年(昭和24年)に食糧事情に改善の兆しが見えると同政令が廃止され[4]食堂の自由営業が事実上可能となった。1950年(昭和25年)5月1日からはコメ以外のパンうどんなどが統制から外れ、外食券なしで食べられるようになり[5]1951年(昭和26年)には外食券食堂の制度自体も廃止(米穀通帳は継続)、新たに制度化された民生食堂に移行した。

脚注 編集

  1. ^ 昭和7年創業 両国「下総屋食堂」 かつては都内に500軒、現存わずかな都指定「民生食堂」の面影を訪ねる”. アーバンメトロ (2019年9月6日). 2022年1月15日閲覧。
  2. ^ 「東京の前食堂を三種に区分」『毎日新聞』1944年(昭和19年)4月10日東京版(昭和ニュース編纂委員会『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p.41 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  3. ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、23頁。ISBN 9784309225043 
  4. ^ 日比野光敏『すしのひみつ』p114 金の星社 2015年7月
  5. ^ 『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』p39

関連項目 編集