大久保 忠員(おおくぼ ただかず)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将徳川氏の家臣で蟹江七本槍の一人。

 
大久保 忠員
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正8年(1511年
死没 天正10年12月13日1583年1月6日
別名 甚四郎、平右衛門
墓所 愛知県岡崎市竜泉寺町長福寺
主君 松平清康広忠徳川家康
氏族 駿河宇津氏大久保氏
父母 父:宇津忠茂
兄弟 忠平忠俊忠次忠員忠久忠行加藤景成妻、杉浦政次
忠世忠佐忠包忠寄忠核忠為忠長忠教忠元、九平次、娘(大河内正綱妻)
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徳川家康の祖父・松平清康の頃から3代に渡って仕えた宿老。

天文6年(1537年)、松平広忠伊勢国に逃れた際には、兄・大久保忠俊と共に岡崎城に帰参させた。天文11年(1542年)、松平信孝の反抗において、弟・忠久が信孝側についた時、兄・忠俊と共に忠久を説得して広忠側に帰順させた。

弘治元年(1555年)の蟹江城攻めにおいて戦功をあげ、「蟹江七本槍」の一人に称された。永禄6年(1563年)の三河一向一揆では上和田城を守備して活躍した。

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