大久保氏
三河大久保氏編集
大久保氏 | |
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本姓 |
藤原北家宇都宮氏?[2] 駿河国和邇部氏?[2] |
家祖 | 大久保忠茂または大久保忠俊 |
種別 |
武家 華族(子爵) |
出身地 | 三河国 |
主な根拠地 |
三河国碧海郡上和田[注釈 1] 相模国小田原 下野国烏山 |
著名な人物 |
大久保長安 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
関東の豪族・宇都宮氏の庶流である武茂氏からの分流で、南北朝の争乱の際に武茂時綱の子の武茂泰藤が三河国に移住したのが始まりで、その子孫が松平氏に仕えたとされるが、真相は不明である。当初は宇都宮氏にあやかり宇津氏と名乗っていたが、大久保忠茂または大久保忠俊の代に大久保(大窪)姓を称した。
『柳営秘鑑』の中では、安祥松平家(松平宗家・徳川家)安祥城居城時代からの最古参の安祥譜代7家の1つに挙げられている。
徳川家康の配下として活躍したのは忠茂の孫で、大久保忠員の子である大久保忠世、忠佐の兄弟が主要な合戦で武功を挙げている。
江戸幕府草創期編集
忠世の子・大久保忠隣は徳川秀忠付けとなり、やがて老中に抜擢されるほど重用される。しかし1614年(慶長19年)、忠隣は改易処分となる。身柄は井伊直孝に預けられ、近江国栗太郡中村へ配流された。跡目に期待していた長子・忠常を失って以来、失意の底にあった忠隣は赦免される事なく、その地で没している。
忠隣の次男以下も処分対象であったが、蟄居処分で済んでいる。
御赦免編集
1625年(寛永2年)、忠隣の孫・忠職の代になって、ようやく赦免された。当時22歳の忠職は、母方の従兄弟・松平忠隆の死去に伴い、美濃国加納藩の新たな藩主となって大久保家嫡流(大久保加賀守家)を再興させた。
実子に次々と早世された忠職の跡を継いだ大久保忠朝の代から再び、相模国小田原藩に封された。相模守忠隣の改易から、実に70年余の歳月が流れている。その後も小田原藩の統治が続き、明治維新を迎える事ができた。1869年(明治2年)の版籍奉還後、小田原藩の10代藩主・大久保忠良は、そのまま藩知事となったが、1871年(明治4年)に廃藩置県があり、大久保家は華族に列して、のちに子爵となった。
傍系編集
戦国期の忠員の兄弟である忠俊の子孫は旗本になった。また、忠行は戦で足が不自由になった後に菓子作りで徳川家康に仕えて、後に神田上水の開削に努めた功によって子孫は代々江戸幕府の菓子司を務めたという伝説がある。
忠員の子である忠世・忠佐兄弟には、他にも「天下の御意見番」の異名で呼ばれる忠教(彦左衛門)という著名な弟がいた。兄・忠佐からの跡目相続要請を固辞して、旗本で生涯を終えている。
彦左衛門の系統以外に、忠為の系統も存在する。忠為の直系孫・常春は下野国烏山藩を起こした上に、老中に抜擢された。
忠為の四男・忠舊は紀州藩士となっていたが、孫娘・深徳院は9代将軍・徳川家重の生母となっている。そのため深徳院の弟たちは幕臣に召し出された。
なお、幕末・明治期の政治家大久保一翁(忠寛)は、大久保忠俊の庶子で嫡出の忠勝とは別家の旗本を起こした大久保忠安の末裔である。
三河大久保氏系図編集
凡例 1) 実線は実子、点線(縦)は養子。 2) 構成の都合で出生順より組み替え。 3) 系図の出典元は(武家家伝_大久保氏)、(日本の苗字7000傑)、(大名家の系図を現代までつなげてみる)。
武茂泰藤 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武茂泰綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇津泰道 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇津泰昌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇津昌平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇津昌忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇津忠与 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大久保忠茂1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠俊 | 忠員2 | 忠行(主水) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠勝 | 忠世3 | 忠佐 | 忠包 | 忠寄 | 忠核 | 忠為 | 忠長 | 忠教 | 忠元[※ 1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康忠 | 忠隣4 | 忠兼 | 烏山藩系 | 忠名 | 包教 | 政雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康村 | 忠常5 | 石川忠総 | 石川成堯 | 幸信[※ 2] | 教隆[※ 3] | 忠隆 | 忠直 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康任 | 忠職6 | 忠朝 | 教勝 | 忠直 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康明 | 宇津季之 | 忠倫 | 忠朝7 | 教福 | 忠英 | 忠備 | 下條信近 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康命 | 忠増8 | 宇津教信[※ 4] | 教寛 | 石川総為 | 忠恒 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康致 | 忠方9 | 石川総陽 | 宇津教保[※ 5] | 宇津教逵 | 教端 | 教平[※ 6] | 忠順[※ 7] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康寛 | 忠興10 | 忠紀 | 忠章 | 教起 | 教近 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠由12 | 忠厚 | 教倫 | 教翅 | 教富 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠顕13 | 忠彦 | 教翅 | 教文 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠隆 | 忠真14 | 教孝 | 教徳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
井上正健 | 忠脩 | 忠愨15 | 教業 | 教義 | 教愛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠礼16→18[※ 8] | 忠良 | 教正 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠一19 | 忠良17 | 教尚 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠言20 | 教道 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠智21 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
その他の大久保氏編集
薩摩国出身の大久保利通の一族がいる。薩摩藩士の大久保家は藤原姓とされるが定かではない。「甲東逸話」では一説、源姓畠山氏の一族で戦国時代に京都から薩摩に移るという。また、寛文年間の「諸家大概」にその系図を偽者扱いされている大窪源太左衛門という人物が源姓畠山氏を称しているが、この人物と当大久保家との関係は不明。貞享年間に市来郷川上に下り、後年に鹿児島城下に戻るという。彼の一族については大久保利通を参照。
利通系薩摩大久保氏系図編集
脚注編集
参考文献編集
- 太田亮「オホクホ」『国立国会図書館デジタルコレクション 姓氏家系大辞典』第1巻、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1132-1140頁。全国書誌番号:47004572。NCID BN05000207。OCLC 673726070。
- “日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏道兼流【3】”. 日本の苗字7000傑. 2017年4月11日閲覧。
- “武家家伝_大久保氏”. 風雲戦国史-戦国武将の家紋-. 播磨屋. 2017年4月11日閲覧。
- “大名家の系図を現代までつなげてみる”. 2010年5月22日閲覧。[リンク切れ]