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大伴 駿河麻呂(おおとも の するがまろ)は、奈良時代公卿大納言大伴御行の孫[1]。父は不詳だが参議大伴兄麻呂と推定する文献もある。官位正四位上参議従三位勲等は勲三等。

 
大伴駿河麻呂
Otomo no Surugamaro.png
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 宝亀7年7月7日776年7月26日
官位 正四位上参議従三位
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇
氏族 大伴氏
父母 父:大伴兄麻呂大伴道足など諸説
伴氏上
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経歴編集

聖武朝天平15年(743年従五位下に叙せられ、天平18年(746年越前守に任ぜられる。天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱においては、謀反に加わったとして、死罪は免れるものの処罰を受け[2]、その後長く不遇を託った。

のち罪を赦されたらしく、称徳朝末の神護景雲4年(770年)5月に従五位上・出雲守に叙任される。光仁朝に入ると急速に昇進し、同年10月の同天皇の即位に伴い正五位下に、さらに肥後守として改元の祥瑞白亀を献上したことから正五位上と続けて昇叙され、翌宝亀2年(771年)に従四位下に叙せられている。

宝亀3年(772年)には陸奥按察使に任ぜられるところを老いによる衰えを理由に一旦辞退するが、天皇から適任者は駿河麻呂しかいないとの強い希望を受けて任官を受け入れ、正四位下に叙せられた。宝亀4年(773年陸奥国鎮守将軍を兼ね、宝亀5年(774年)には蝦夷征討に関して処置を奏上する。当初朝廷では消極的な態度を取っていたが、7月に征討実施を決定し[3]、8月上旬には坂東諸国に対して援兵を発するように命じている[4]。8月末になると駿河麻呂は一転して、蝦夷の侵略は軽微である上に、草木が繁茂する季節で軍事行動に不適であるとして軍事行動の中止を求める。そのため、この首尾一貫しない奏上について、駿河麻呂は朝廷から譴責を受けている[5]。10月に入り駿河麻呂は陸奥国遠山村(登米郡か)まで侵攻して大きな戦果を挙げた[6]。宝亀6年(775年)9月に参議に任ぜられて公卿に列し、同年11月には反乱を起こして桃生城へ攻め寄せた蝦夷を鎮圧した功労により、正四位上・勲三等に叙せられ、贈賻として30疋と100端が与えられた。

宝亀7年(776年)7月7日卒去。最終官位は参議正四位上陸奥按察使兼鎮守将軍。即日従三位贈位を受けた。

人物編集

万葉集』に和歌作品11首が採録されており[7]、その中にある大伴坂上郎女との相聞歌に妹の坂上二嬢との婚約を暗示する節がある。勅撰歌人として『続古今和歌集』にも1首が採られている[1]

官歴編集

続日本紀』による。

系譜編集

駿河麻呂の子孫を三河伴氏に繋げる系図もある[14]。三河伴氏は後三年の役で活躍した伴助兼を出すなど子孫が繁栄するが、「伴氏系図」(『続群書類従』所収)では駿河麻呂の項に「子孫多」と記されていることが、三河伴氏が駿河麻呂の後裔であることを示している可能性もある[15]

脚注編集

  1. ^ a b 『勅撰作者部類』
  2. ^ 『続日本紀』天平宝字元年8月18日条
  3. ^ 『続日本紀』宝亀5年7月23日条
  4. ^ 『続日本紀』宝亀5年8月2日条
  5. ^ 『続日本紀』宝亀5年8月24日条
  6. ^ 『続日本紀』宝亀5年10月4日条
  7. ^ 『万葉集』3-400・402・407・409、4-646・648・653~655、8-1438・1660
  8. ^ a b 『公卿補任』
  9. ^ 『続日本紀』宝亀7年7月7日条
  10. ^ 公卿補任』では宝亀7年3月に没し、同年4月3日に従三位を追贈とする。
  11. ^ 御行の子と考えられる人物に、兄麻呂・古麻呂・三依・三中がいるが、古麻呂以下は従五位下への叙位時期が駿河麻呂(天平15年)より遅いため、父を兄麻呂とするのが妥当(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』)
  12. ^ 『伴氏系図』(『続群書類従』巻第182 所収)
  13. ^ 『日本文徳天皇実録』斉衡元年8月16日条
  14. ^ 鈴木真年『百家系図』巻59,大伴宿禰
  15. ^ 宝賀[1986: 833]

参考文献編集