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大倉村 (宮城県)

大倉村(おおくらむら)は、1889年まで宮城県宮城郡の北西部にあった村である。広瀬川の支流大倉川の流域にあり、1889年に合併して大沢村の一部になった。現在の仙台市青葉区の北西部にあたる。山村だが、自動車の便がよくなった現在では大倉ダム定義如来により仙台市民にとって身近な行楽地である。

大倉村
廃止日 1889年4月1日
廃止理由 新設合併
大倉村芋沢村大沢村
現在の自治体 仙台市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 東北地方
都道府県 宮城県
宮城郡
総人口 918
(2000年)
隣接自治体 宮城県
宮城郡 作並村熊ヶ根村上愛子村
芋沢村福岡村西田中村
黒川郡 吉田村
山形県
北村山郡 鶴子村
大倉村役場
所在地 宮城県宮城郡大倉村
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この記事では合併後の大倉地区についても記述する。

目次

地理編集

宮城県中部にある宮城郡の西部山地帯にあり、北西端の山形県との県境に船形山が聳える。村の西部は船形山まで続く山林である。人の居住域は、広瀬川の支流大倉川の流域と、その隣を流れる青下川の流域にわかれる。大倉村は両川の流域にまたがるが、その全部ではなく、広瀬川への合流点付近では両川の間にはさまれた土地だけが大倉村に属する。大倉川左岸は芋沢村、青下川右岸は熊ヶ根村である。また、峠を越えたところにある北東部は七北田川に面し、川を下ったところにある根白石村(現在の泉区西部)との関係が強かった。

大倉川沿いにところどころ山で狭められて数珠繋ぎになった河岸段丘に集落がある。もっとも下流は青下川と大倉川にはさまれた台地、中流部は現在大倉湖があるところで、幅が広かった。そこからさらにさかのぼった谷間には定義如来と集落がある。もっとも奥の河岸段丘は十里平で、これが大倉川沿いのもっとも奥の集落でもある。定義如来から北に、支流の湯川を上ったところに定義温泉がある。青下川上流の谷間には青下、中流部の河岸段丘には大手門がある。七北田川沿いの北東部には白木がある。

日向、定義、下倉、大手門、白木は、大沢村の成立とともに設けられた行政区である。後、日向の西に大倉栗生が設けられて6区になった。その下に多くの小字があり、その数は明治時代に160あったが、しだいに減少した。

1961年大倉ダムが完成してからは、このダムと大倉湖が特徴的な地形として日向、栗生の間に広がる。ダムの川下は公園である。

歴史編集

大倉川流域と青下川流域には縄文時代の遺跡が散在し、石器や土器が見つかっている。

戦国時代に大倉を含めた宮城郡西部は国分氏の領地であった。廃城を記録した江戸時代の『仙台古城書上』大倉村の箇所に「おかな館城」があるが、どこにあったのか、後述の館のどちらかにあたるのかなどは不明である。『安永風土記書上』には、下大倉館と大原館が古館として記されている。戦国時代には大原館に作並宮内、下大倉館には大倉氏が居住した。国分氏滅亡後、大倉蔵人が伊達政宗に仕えたが、1590年(天正19年)に葛西大崎一揆佐沼城攻めで戦死して家名が絶えた。しかしその兄弟が関氏を名乗り、子孫が大倉に居住して、幕末まで在郷武士として続いた。

江戸時代の大倉村は豊かな山林資源を持っていた。山林が多いのは周辺の村も同様であったが、そこでは藩有の林の比率が高かったため、村人が自由に利用できなかった。そのため、大倉村の山が大倉村、熊ヶ根村作並村、愛子村、郷六村芋沢村入会地として利用された。仙台の町が発展すると、薪炭を産する山林は財産的価値を高め、境界争いが起こった。1720年(享保5年)に大倉村は入会の山を自村だけのものだと主張して愛子村、熊ヶ根村と争いを起こし、1725年(享保10年)に敗訴した。1827年(文政10年)頃からは在郷武士の新国正之助とその子六右衛門が三つの山を自家のものと主張して争いがおこり、1840年(天保11年)に今度は大倉村の勝訴で決着した。文久3年(1863年)には、田中村との間に境界争いが起こった。

明治時代の大区小区制では宮城県の第二大区第一小区(芋沢村、大倉村、熊ヶ根村、作並村、愛子村、郷六村)に属した。1889年町村制施行の際に、芋沢村と合併して大沢村の一部になった。

町村合併促進法を受けて宮城県が大沢村と広瀬村の合併を勧めたときには、大倉の住民に反対がおこった。また、白木地区の住民は関係が深い根白石村への合併を希望した。どちらの運動も実らず、両村合併により大倉は宮城村の一部になった。

大倉川にダムを建設する計画は、宮城県仙台市が別個に進め、県が大倉ダム案を、市が定義ダム案をおして対立した。結局、県の案が採用され1958年に工事が始まった。水没地の住民は一時反対運動を起こしたが、結局立ち退かされた。大倉ダムは1961年に完成した。農業用水、工業用水、水力発電にも用いられる多目的ダムだが、主たる目的は仙台への水道水の供給である。ダムによって家屋58戸と田畑68ヘクタールが水没した。

江戸時代の村高
  正保郷帳
(1644-48年)
元禄郷帳
(1699年)
安永風土記
(1774年)
天保郷帳
(1833年)
68貫118文 79貫479文  
32貫956文   42貫607文  
村高計 101貫70文 927石1斗3升 122貫149文 1188石8斗5升
新田 2貫290文  

出典は注[1]を参照。

  • 1874年(明治7年)4月 - 大区小区制の下で第2大区第1小区に属す。芋沢、大倉、熊ヶ根、作並、郷六、愛子の6か村[2]
  • 1876年(明治9年)11月18日 - 宮城県管内区画変更により第14小区に属す。(『宮城郡誌』による。『宮城町史』によれば8月)
  • 1894年(明治17年) - 熊ヶ根村上愛子村下愛子村郷六村作並村、大倉村、芋沢村に連合戸長を置いた。
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 大倉村と芋沢村が合併して大沢村になった。
  • 1955年(昭和30年)2月1日 - 大沢村と広瀬村が合併して宮城村になった。
  • 1961年(昭和36年) - 大倉ダム完成。
  • 1963年(昭和38年)11月3日 - 宮城村が宮城町になった。
  • 1987年(昭和62年)11月1日 - 宮城町が仙台市へ編入された。
  • 1989年(平成元年)4月1日 - 仙台市に青葉区が置かれ、大倉はこれに属した。

人口編集

人口等の推移
安永3年頃
(1774年頃)
明治8年
(1875年)
昭和40年
(1965年)
昭和60年
(1985年)
平成7年
(1995年)
平成12年
(2000年)
平成20年
(2008年)
人頭 48人 - - - - - -
家数・戸数・世帯数 72軒 80戸 268世帯 223世帯 216世帯 330世帯
人口 671人 785人 1434人 1095人 1005人 951人 891人
157疋

出典は注[3]を参照。

産業編集

水田、畑作、畜産が営まれる。

江戸時代の大倉村では馬の飼育が盛んで、農耕用だけでなく運搬用の馬をも産した。安永3年の『安永風土記書上』によれば、大倉村には人家72軒に対して馬が157頭いた。明治時代に農耕馬と軍馬の需要が高まると、大倉村では仔馬を盛んに飼育して売った。第2次世界大戦後に軍馬需要がなくなり、機械化が進むと、馬は激減し、かわって牛が飼育されるようになった。

かつては豊富な山林資源による林業が盛んであった。青下川では大正末期まで、大倉川では昭和初期まで、切り出した材木を川に流して下流に輸送する流木が行われた。また薪炭も重要で、馬に荷を積み、山道をたどって仙台に送り出した。明治時代からは木炭の生産が盛んになり、1920年代には荷馬車、1945年頃から自動車と輸送手段が移り変わったが、その後は木炭需要が低くなり生産が減少した。

定義如来には日帰りを中心に多くの参拝者が訪れる。定義とうふ店の三角揚げが名物である。門前には定義こけしの工房がある。江戸時代から続く定義温泉は現在湯治専用で、一般の観光客を受け入れていない。1984年の定義への入り込み客は158万2728人で、うち宿泊者が1万9464人であった。

1966年の土地利用
 面積(a)比率
14,44725%
7,30313%
樹園地1930%
草地7,65313%
山林27,14148%
56,718

交通編集

古い時代の往来は、南方で青下川を渡って熊ヶ根村に出た。仙台に通じる道は、東の山の中に入って芋沢川上流に出て、そこから芋沢川沿いに下り、国見峠を越えて仙台の北西に出るコースであった。明治時代に大倉川の左岸に道路が整備され、難所にトンネルが作られて広瀬川北岸を通って仙台に向かう道ができた。また、北東の根白石村に通じる道もあった。

現代では、宮城県道55号定義仙台線が定義如来の前から南南東に大倉川沿いに下り、大倉ダム、新天狗橋を経由して芋沢に入り、仙台へ通じる。南に出る道は、宮城県道263号泉ヶ丘熊ヶ根線で、青下橋青下川を渡って熊ヶ根に入る。この県道263号は村の北では根白石に通じる。

教育編集

大倉村・大倉地区には、明治の初めから大倉小学校があり、戦後に大倉中学校が置かれた。20世紀後半の人口減少により、大倉中学校は廃止された。

大倉中学校編集

大倉中学校は、1947年(昭和22年)に設立された。当初は大倉小学校の中に置かれ、生徒数は152人、教職員は8人であった。山間僻地の中学校である。大倉中学校では、1951年から1964年まで学校植林として2万本をこえる木を植えた。植林は1962年から環境緑化計画の一環にくみこまれ、その後は芝生整備などの環境緑化をすすめた。1961年に、大倉ダムで水没する校舎から移転した。生徒数は漸減の傾向にあり、1960年度に94人いた生徒数は、1980年度に36人に減少した。1990年代に入ると生徒数がさらに減少し、1994年度は生徒数14人、教職員14人の状態となり、僻地教育研究の指定校に認定された。それにより、仙台大学・荒井富雄特任教授の実兄である荒井弘校長や、のちに宮城教育大学講師となる栗田政利教頭など実力派の教員が着任する。その結果、のちに博士(工学)となる早坂良 准教授を輩出するなど大きな成果を上げた。

大倉中学校は2001年4月に熊ヶ根中学校と統合する形で廃止になった。新しい広陵中学校の場所は熊ヶ根である。跡地には2006年7月1日に生涯学習施設「大倉ふるさとセンター」が開設された。

  • 1947年(昭和22年)4月1日 - 大沢村立大倉中学校として創立。
  • 1950年(昭和25年)9月24日 - 大倉字新田山神に完成した新校舎に移転。
  • 1951年(昭和26年)10月8日 - 第1回学校植林。
  • 1955年(昭和30年)2月1日 - 宮城村立大倉中学校に改称。
  • 1961年(昭和36年)5月28日 - 大倉字若林の新校舎に移転。
  • 1962年(昭和37年) - 環境緑化第1年次計画の実施。
  • 1965年(昭和40年) - 環境緑化指定校。
  • 2001年(平成13年) - 廃止。

宗教編集

寺院編集

江戸時代の大倉村には、青松寺、西方寺、無量寺の3つの寺があり、大学院という修験院が1つあった。明治時代に入って無量寺と大学院は廃寺になり、青松寺と西方寺が現在まである。

定義にある西方寺浄土宗の寺院で、一般には定義如来として知られる。寺伝では建久9年(1198年)7月7日に平貞能が没した地にその臣が仏堂を作ったのが始まりとする。大倉に伝わる平家の落人伝説の一部である。1706年(宝永3年)にその家臣の子孫早坂源兵衛が出家して良念と称し、極楽山西方寺を創立したとする。山奥の寺だが信仰を集め、初詣には多数の参拝者が訪れる。

青松寺は曹洞宗の寺院で、高畑にある。天文元年(1532年)の創建と伝えられる。慶応3年(1867年)1月に火災にみまわれて再建されたが、そのとき古い記録を喪失した。

  • 大倉山 青松寺
  • 極楽山 西方寺(定義如来)
  • (帰命山 無量寺)
  • (想海山 大学院)

神社編集

安永風土記書上によれば、江戸時代の大倉村には、小倉明神社、鞍掛明神社、神明社、熊野権現社、甲明神社、荒胡麻明神社、神明社、御嶽権現社、愛宕社、愛宕社、御仮宮の11の神社があった。小倉明神社は後の小倉神社と思われるが、その他は後世のものにどう対応するのかよくわからない。

1875年(明治8年)3月に小倉神社は村社となった。明治時代には他に水分神社、船形山神社、白髭山神社、神明社の4つの神社があったが、内務省の神社合祀政策によって、1912年(大正元年)9月28日にみな小倉神社に合祀されて公式には廃止になった。しかし地元の人がまつって維持したところも多い。他に、西方寺の境内に、熊野神社の社がある。

小倉神社は平貞能が勧請してまつったという社伝を持つ。これも西方寺のときと同じく平家の落人伝説の一部である。天正年間に大倉蔵人信成が社殿を改築したという。

  • 小倉神社
  • 熊野神社
  • 水分神社

名所など編集

編集

  1. ^ 『宮城町誌』本編(改訂版)、『仙台藩の正保・元禄・天保郷帳』から作成。
  2. ^ 1953年刊『仙台市史』第9巻352頁、資料番号782「明治7年4月管内区画更正達書第29号」。
  3. ^ 人頭は本百姓の数で、これに名子水呑を加えた家数が世帯数に相当する。資料は1774年が『宮城町誌』に掲載の『安永風土記書上』抜粋、1875年が『広瀬川ハンドブック』に掲載の『皇国地誌』抜粋。1965年と1985年は『宮城町誌』掲載の国勢調査集計の一部。1995年、2000年、2008年は『町名別人口統計資料』。

参考文献編集

  • 古文書を読む会『仙台藩の正保・元禄・天保郷帳』(宮城県図書館資料7)、1987年。
  • 仙台市史編纂委員会『仙台市史』第9巻(資料篇2)、仙台市役所、1953年。
  • 仙台市「宮城町誌」改訂編纂委員会『宮城町誌 本編(改訂版)』、1988年。
  • 仙台市「宮城町誌」改訂編纂委員会『宮城町誌 続編』、1989年。
  • 仙台市「宮城町誌」改訂編纂委員会『宮城町誌 史料編(改訂版)』、1989年。
  • 仙台市企画局情報政策部情報企画課・編『町名別人口統計資料 平成12年国勢調査結果』、仙台市、2002年。
  • 仙台市企画市民局総合政策部政策企画課『町名別世帯数及び人口(住民基本台帳による)平成20年4月1日現在』。
  • 仙台都市研究機構『広瀬川ハンドブック』(改訂版)、2001年。『皇国地誌』の抜萃がある。