大宇陀町
大宇陀町(おおうだちょう)は、かつて奈良県宇陀郡にあった町。2006年(平成18年)1月1日に菟田野町・榛原町・室生村と合併して宇陀市が発足し、自治体としての大宇陀町は廃止された。
おおうだちょう 大宇陀町 | |||||
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廃止日 | 2006年1月1日 | ||||
廃止理由 |
新設合併 大宇陀町、榛原町、菟田野町、室生村 → 宇陀市 | ||||
現在の自治体 | 宇陀市 | ||||
廃止時点のデータ | |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 近畿地方 | ||||
都道府県 | 奈良県 | ||||
郡 | 宇陀郡 | ||||
市町村コード | 29381-4 | ||||
面積 | 47.44 km2 | ||||
総人口 |
8,781人 (2004年5月1日) | ||||
隣接自治体 |
桜井市 宇陀郡 榛原町・菟田野町 吉野郡 吉野町 | ||||
町の木 | クヌギ | ||||
町の花 | カザグルマ | ||||
町の鳥 | ホオジロ | ||||
大宇陀町役場 | |||||
所在地 |
〒633-2166 奈良県宇陀郡大宇陀町大字迫間25番地 | ||||
外部リンク | 大宇陀町 | ||||
座標 | 北緯34度28分44秒 東経135度55分41秒 / 北緯34.47889度 東経135.92811度座標: 北緯34度28分44秒 東経135度55分41秒 / 北緯34.47889度 東経135.92811度 | ||||
ウィキプロジェクト |
2011年(平成23年)3月までは宇陀市の地域自治区として大宇陀区が存在した。
地理
編集奈良県東北部、大和高原の南端部に位置していた。宇陀川流域の小盆地に中心市街地(旧松山町域)が形成されていた。町域の東及び南は音羽三山など標高800〜900mの竜門山地が桜井市、吉野町との境界をなす。町域の北部と西部は標高350〜400mの丘陵地からなり、榛原町、菟田野町と接する。町域の中心部、旧松山町域の西には標高471mの城山がそびえる。
町域の大部分は淀川水系の宇陀川及びその支流の流域だが、南部の旧上龍門村域の西半分は紀の川水系の津風呂川流域だった。
面積の大部分を山林が占め、丘陵間の谷地は田畑として利用されていた。市街地は宇陀川と城山の間の細長い平地にのびていた。
町域の中心を宇陀川・津風呂川沿いに国道370号が縦断していた。桜井市より延びる国道166号は北西女寄峠より町域に入り、旧松山町域で国道370号と交差して東の菟田野町へ抜ける。最寄りの鉄道駅は北方の近鉄大阪線榛原駅で、町域に鉄道はない。
歴史
編集古代には阿騎野と呼ばれ、宮廷の狩場となった。柿本人麻呂は阿騎野で「東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾ぬ」という和歌を詠んでいる。『延喜式』内の阿紀神社(迫間)が鎮座する。
『日本書紀』には「菟田野」と記され、薬草の採取(薬猟)や栽培、生薬製造が江戸時代にかけて栄えた。現代でも「薬の館」が市の歴史文化館として公開されている[1]。
中世には地侍出身の秋山氏が支配したが、その後は支配者が入れ替わり、江戸時代の17世紀には織田松山藩3万石の城下町となった。織田氏転封後は江戸幕府直轄領となり、明治維新を迎える。
年表
編集町長
編集- 植田藤代見
- 都司太右衛門
- 松尾四郎
姉妹都市
編集教育
編集高等学校
編集中学校
編集小学校
編集交通
編集道路
編集施設
編集- 畜産技術センター
- 大宇陀土木事務所
名所・旧跡・観光スポット
編集出身著名人
編集脚注
編集- ^ 【みちのものがたり】宇陀松山 薬草の道(奈良県)『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2019年11月16日6-7面
- ^ 2016年(平成28年)4月には田原小学校の跡地に日本教育学院高等学校が開校した。
- ^ 出典は『映画年鑑 1960年版 別冊 映画便覧 1960』時事通信社、1960年。同文献を出典とする1960年の映画館(近畿地方)「消えた映画館の記憶」を参照した。
- ^ 一歩ずつ 積み重ねを 母校・畝傍高で講演 奈良新聞
- ^ 宇陀市誕生10周年記念式典が開催されました 宇陀市
- ^ “プロフィール|東祥高(あずまよしたか)”. 日本コロムビアオフィシャルサイト. 日本コロムビア. 2021年5月3日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 旧大宇陀町のあゆみ - 宇陀市公式サイト