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大山 光隆(おおやま あきたか/みつたか)は、江戸時代初期の出羽国武将

 
大山 光隆
時代 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 元和9年(1623年
別名 広隆
主君 最上義光家親義俊
出羽国山形藩
氏族 最上氏大山氏
父母 父:最上義光、母:清水姫(清水義氏の娘)
兄弟 最上義康最上家親清水義親
山野辺義忠上野山義直光隆

生涯編集

山形城主で戦国大名最上義光の六男に生まれる。最上氏斯波氏の流れを汲む名門で、斯波氏は足利氏の一門にあたる。しかし光隆が生まれた頃には斯波氏は没落し、一方、最上氏は勢力拡大の途上にあった。

関ヶ原の戦い後、最上氏は山形藩57万石の大領主になり、光隆は大山城21000石を与えられる。父義光の死後は兄の家親が藩主になり、光隆は元和元年(1615年)27000石に加増された。この頃から最上家臣の中には不穏な空気があり、元和3年(1617年)の家親死後、家親の子義俊が藩主になると元和8年(1622年最上騒動が勃発した。この時光隆は兄山野辺義忠にも甥義俊にも味方せず、中立の立場をとった。そして後に最上氏が改易されると、光隆は酒井忠世にお預けとなったが、翌年広島にて突如自害した。

出典編集

  • 奥羽斯波・最上氏諸列記
  • 北天の巨星最上義光
  • 山形藩崩壊記
  • 『最上義光―戦国の驍将』(新人物往来社・1996年)ISBN 4404024169