大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日明治5年7月27日[注釈 1]) - 没年不詳[注釈 2])は、日本の新聞記者随筆家。本名は景秋(かげあき)。山口県長府(現・下関市)出身[注釈 3]

生涯 編集

白石正一郎の弟である大庭傳七(景明)の三男として生まれる[7][注釈 4]。傳七は長府大年寄大庭家の養子で長府藩士であったが[8]明治維新後、太政官に出仕したため、養父に従って上京した。しかし、傳七は1884年に死去[9]。大庭は小学校卒業後は太政官の給仕などの仕事をしながら夜学で英語やロシア語を学ぶ[9]。これらの学習を通じて二葉亭四迷と交際を持った[9]

1896年ウラジオストクに渡航し、商館で通訳を務めた[7][9]。帰国後、第11師団のロシア語教官や陸軍参謀本部の通訳官を歴任する[9]1906年に再度ウラジオストクに渡航したところ、革命派の容疑で拘束された[9]。同年に帰国後、大阪毎日新聞記者となる[9]。1907年(明治30年)ころモスクワに行き、以来、数回にわたってヨーロッパと日本を往復。このほか、特派員としてオーストラリア、フィリピン、南アメリカ、中央アジアなどをも歴訪した[9]。その後東京日日新聞を経て東京朝日新聞に移り、第一次世界大戦に際しては東京朝日記者として東部戦線のロシア軍に従った[9]。また、ペトログラード十月革命に遭遇し、その模様を記事として書き送っている。

帰国後の1918年大阪朝日新聞の「白虹事件」の影響を受けて東京朝日新聞を退社[9]。翌1919年に、同じく東京朝日を退社した松山忠二郎が社長に就任した読売新聞社に招かれて編集局長となった[10]。社会運動に関心をもち、著作家組合、日本社会主義同盟の創立にかかわった。

1921年5月、読売新聞の特派員としてシベリアからロシアに入る[11]。7月、極東共和国の取材でチタから送ったレポートを最後に消息を絶つ。11月、イルクーツク田口運蔵などと合流しモスクワに向かう。1922年4月22日にゲーペーウーから「親ソを装った破壊分子」という容疑で逮捕状が出される[12]。ブウテルスカヤ監獄に7か月間監禁される。7月25日に「犯罪容疑はないが、政治的危険分子として国外追放」がゲーペーウーより決定され、10月には「11月に日本に送還」との指示が出されたが、帰国しなかった[12][11]山崎今朝弥1925年10月に執筆した文章によると、1922年12月頃にモスクワにいる日本人に対して「来年1月末には日本に着けるだろう」という手紙を送っていた[13]

ロシアで死去したことが1924年に日本に伝えられると、当時の在露日本人社会主義者の密告によって大庭がロシアの官憲に殺されたという噂が流れ、「大庭柯公虐殺真相調査会」も結成されたと山崎の文章にある。また、ロシアに渡ってモスクワで日本語教師を務め、ロシアによる逮捕投獄後に帰国した久保田栄吉こと寺田二三郎は「大庭の密告によって」投獄されたと語り、大庭の投獄については「片山潜のグループの中傷によるもの」だと述べていたことが当時の政府機密文書に残されている[14]。やはりロシアにいた鈴木茂三郎は片山に大庭の釈放を求め、逆に脅されたと回想している[15]。戦前にソ連に渡航した社会主義関係者について調査をおこなっている加藤哲郎は、大庭は粛清された模様であると記している[16]

1924年11月、ソ連大使館から遺留品である日本円500円が遺族に送金され[17]、1925年1月19日、親交のあった有志が遺族を慰めるために、神奈川県總持寺で追悼大法要を行う[18][19]。没後友人関係者によって全集が刊行された。白虹事件でやはり朝日新聞を退社した長谷川如是閑は全集第一巻の序文で「柯公大庭君の前半生と後半生とは、2つの異った色彩を帯びていた。前には国家主義的色彩を帯びていた君は、後には社会主義的色彩を帯びるに至った」と記している。

1992年10月21日付で、ロシア保安省により名誉回復の措置が取られる[20]。1997年1月20日、東京のロシア大使館で親族が顔写真などの遺品を受け取る[21]。後に直系の孫がいることが分かり、同年2月25日に親類から直系の孫に遺品が手渡される[22]

家族 編集

エスペランティスト 編集

大庭は1902年頃にウラジオストクでエスペラントを学び、日本エスペラント協会(JEA)に入会。エスペラントの普及活動に当たった。

著書 編集

単著 編集

  • 『人物分布観』 上篇、梁江堂、1910年1月。 NCID BA41735930全国書誌番号:40016221 
  • 『南北四万哩』政教社、1911年6月。 NCID BN10416372全国書誌番号:40006078 
  • 『露西亜の戦線より』冨山房、1915年8月。 NCID BA38436294全国書誌番号:43023190 
  • 『世界を家として』至誠堂書店〈大正名著文庫 第29編〉、1917年1月。 NCID BN08778483全国書誌番号:43016973 
  • 『露西亜に遊びて』大阪屋号書店、1917年9月。 NCID BN08835157全国書誌番号:43019307 
  • 『其日の話』春陽堂、1918年10月。 NCID BA56728746全国書誌番号:43004214 
  • 『世を拗ねて』止善堂書店、1919年9月。 NCID BN13995389全国書誌番号:43029365 
  • 『ペンの踊』大阪屋号書店、1921年1月。 NCID BA35247568全国書誌番号:43029504 
  • 『露国及露人研究』柯公全集刊行会、1925年5月。 NCID BN12186229全国書誌番号:43048391 
  • 『柯公随筆』羊門社〈羊門文庫 10〉、1938年7月。 NCID BA60600735全国書誌番号:46075470 
  • 『露国及露人研究』朝日新聞社朝日文庫 25〉、1951年12月。 NCID BN1169312X全国書誌番号:52001555 
  • 『露国及び露人研究』中央公論社〈中公文庫〉、1984年3月。ISBN 9784122011090NCID BN08859585全国書誌番号:84032120 

校閲 編集

全集 編集

柯公全集刊行会(1925年) 編集

大空社(1995年) 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ この当時、日本では天保暦が使用されており、グレゴリオ暦とは日付が異なる。
  2. ^ 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス[1]、『20世紀日本人名事典』[2]では1924年(大正13年)、『世界大百科事典 第2版』[3]では1923年(大正12年)、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』[4]では1921年(大正10年)と没年が記されている。また、「『1923年(大正12年)5月23日にシベリアのイルクーツク付近で銃殺された』という証言を得た」という報道もある[5][6]
  3. ^ 長府惣社町の生家跡に1996年に建てられた解説碑がある。
  4. ^ 『朝日日本歴史人物事典』等では父の名を「景明」とする。

出典 編集

  1. ^ 大庭, 柯公, 1872-1924”. Web NDL Authorities (国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス). 国立国会図書館 (2019年1月7日). 2021年5月20日閲覧。
  2. ^ 20世紀日本人名事典『大庭 柯公』 - コトバンク
  3. ^ 世界大百科事典 第2版『大庭柯公』 - コトバンク
  4. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『大庭柯公』 - コトバンク
  5. ^ 「また伝えられた大庭柯公氏の死」『読売新聞』、1924年8月23日、3面。
  6. ^ 「大庭柯公氏は確に銃殺された 氏が最後まで滞在してゐた一露人の証言で」『朝日新聞』、1924年8月23日、7面。
  7. ^ a b 『世界大百科事典』
  8. ^ a b c 維新史跡めぐり法華寺 志士の杜
  9. ^ a b c d e f g h i j 『朝日日本歴史人物事典』
  10. ^ 『読売新聞百年史』。松山は東京朝日の元編集局長であった。
  11. ^ a b 読売新聞用語解説[リンク切れ]
  12. ^ a b 稲子恒夫編著『20世紀のロシア 年表・資料・分析』東洋書房、2007年
  13. ^ 山崎今朝弥「日本社会運動内面史」『解放』解放社、第4巻2号[1]
  14. ^ 山内昭人「片山潜、在露日本人共産主義者と初期コミンテルン」『大原社会問題研究所雑誌』566号、2006年[2]。寺田は久保田名義で1926年に『赤露二年の獄中生活』(矢口書店)を刊行した。
  15. ^ 鈴木徹三「戦後社会運動史資料論―鈴木茂三郎」『大原社会問題研究所雑誌』517号、2001年[3]。鈴木徹三は鈴木茂三郎の子息。
  16. ^ 日本人粛清犠牲者リスト - 加藤のウェブサイト
  17. ^ 「大庭柯公氏の金五百円を労農政府から送金 北京の大使館の手を経て我島田領事に依頼」『読売新聞』、1924年11月27日、2面。
  18. ^ 「十八日総持寺で大庭柯公氏の大法要 寝食いをしては済まぬと――」『読売新聞』、1925年1月9日、2面。
  19. ^ 「大庭柯公氏の追悼会 きのう総持寺で」『読売新聞』、1925年1月19日、2面。
  20. ^ 「革命直後ロシアでスパイ容疑 不明の大庭読売新聞元編集局長70年ぶり名誉回復」『読売新聞』、1992年12月19日、15面。
  21. ^ 「ロシアで消えた記者の遺品70年ぶり返る スパイ容疑逮捕の大庭柯公」『朝日新聞』、1997年1月24日、1面。
  22. ^ 「遺品、親類から東京の孫に 旧ソ連で死亡の大庭柯公記者」『朝日新聞』、1997年2月26日、28面。
  23. ^ a b 『明治維新観の研究』田中彰 北海道大学図書刊行会, 1987、p267
  24. ^ おおば・けいよう 大庭 景陽(1915年没)公益財団法人渋沢栄一記念財団

参考文献 編集

  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年(コトバンク[4]にて閲覧可)
  • 世界大百科事典平凡社(コトバンク[5]にて閲覧可)
  • 芳地隆之『満洲の情報基地ハルビン学院』新潮社、2010年

関連文献 編集

  • 久米茂『消えた新聞記者 大庭柯公』雪書房、1968年
  • 松枝佳奈『近代文学者たちのロシア 二葉亭四迷・内田魯庵・大庭柯公』ミネルヴァ書房、2021年

外部リンク 編集