大明神城(だいみょうじんじょう)は、宮崎県えびの市大明司にあった日本の城)。別名小城、或いは大明司塁で、『飯野古事記』には山城ともある。

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大明神城
宮崎県
別名 大明司塁、小城、山城
城郭構造 平山城
天守構造 建造されず
築城主 北原氏
主な城主 北原氏、島津氏
遺構 土塁、虎口、切岸
位置 北緯32度3分06.44秒 東経130度49分58.82秒 / 北緯32.0517889度 東経130.8330056度 / 32.0517889; 130.8330056
地図
大明神城の位置(宮崎県内)
大明神城
大明神城
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概要 編集

築城主等の詳細は不明ながら、『真幸院記』には「城主は北原氏」とあり、元々北原氏の城であったようである。
東に位置する宮之城掃部城と同様、飯野城加久藤城との連絡路上に位置する。標高285m、比高54mの狭い尾根の、東西に細長く伸び急崖に囲まれたシラス土壌の丘陵の要害に立地された。東西200mに及ぶ細長い主は肥後街道を見下ろすようになっている。

歴史 編集

永禄5年(1562年)、伊東氏に領地を簒奪された北原氏を援けるべく、島津貴久相良義陽北郷時久の三人は相互扶助を約していたが、翌永禄6年(1563年)に一転、相良義陽が裏切って、伊東氏がこの城を攻め落とした際には協力している。島津氏と相良氏の仲が険悪となったきっかけの城である。

その後は再び島津側が取り戻したらしく、永禄11年(1568年)に相良氏が、桶平城(田原陣)に陣を布く伊東氏と連携し、島津義弘の居城である飯野城を攻めようとした際に、島津勢はこの城にて相良勢の進軍を阻んでいる。

また、城内には島津忠恒産土神「大戸諏訪大明神」が祀られている(大明司諏訪神社)。

関連項目 編集

参考文献 編集

  • 『えびの市の城館跡』:宮崎県えびの市教育委員会
  • 『えびの市史 上巻』:えびの市郷土史編さん委員会
  • 『三俣院記 真幸院記 甑島諏訪神社御神事由緒』 鹿児島県史料拾遺(9) (鹿児島県史料拾遺刊行会)
  • 日向記