大林梅子
大林 梅子(おおばやし うめこ、1907年6月24日 - 1995年3月17日[1])は、日本の女優である。初期芸名は大林 静子(-しずこ)、出生名は大林 志づゑ(-しづえ)、結婚後の本名は鈴木 志づゑ(すずき-)である[1][2]。
おおばやし うめこ 大林 梅子 | |
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本名 |
大林 志づゑ -しづえ、出生名 鈴木 志づゑ すずき-、結婚後 |
別名義 | 大林 静子 -しずこ |
生年月日 | 1907年6月24日 |
没年月日 | 1995年3月17日(87歳没) |
出生地 |
日本 愛知県名古屋市矢場町 (現在の同市中区栄3丁目) |
死没地 | 日本 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 映画、サイレント映画 |
活動期間 | 1925年 - 1933年 / 1948年 |
活動内容 |
1925年 マキノ・プロダクション入社 1931年 同社解散、松竹キネマ下加茂撮影所移籍 1933年 引退 |
配偶者 | 南光明 (1960年死別) |
主な作品 | |
『浪人街 第一話 美しき獲物』 |
人物・来歴
編集1907年(明治40年)6月24日、愛知県名古屋市矢場町(現在の同市中区栄3丁目)に「大林志づゑ」として生まれる[1]。
1924年(大正13年)、東京市小石川区(現在の東京都文京区小石川)の淑徳高等女学校(現在の淑徳高等学校)を卒業する[1]。1925年(大正14年)、マキノ・プロダクション御室撮影所に入社[1][2]、同社社長のマキノ省三監督によるサイレント映画『鎌腹』で、「大林静子」名義でデビューする[1]。翌1926年(大正15年)、中根龍太郎監督の『村に来た呑気者』で「大林梅子」に改名した[2]。
1928年(昭和3年)、マキノ正博監督の『浪人街 第一話 美しき獲物』に女スリのお新役で出演[2]、同作は同年のキネマ旬報ベストテン第1位を獲得する。1930年(昭和5年)、マキノ・プロダクションでの女優ランクでマキノ智子、松浦築枝に続く第3位に位置した[2]。1929年(昭和4年)当時の雑誌記事によれば、当時の身長は「5尺」(151.5センチ)、体重は「13貫800匁」(51.75キロ)、趣味は三味線とあった[3]。
1931年(昭和6年)、マキノ・プロダクションが解散となり、夫の南光明とともに松竹キネマ下加茂撮影所に移籍した[1][2]。悪麗之助監督の『紅蝙蝠 第一篇』が松竹入社第1作であった[2]。1933年(昭和8年)、二川文太郎監督の『又五郎兄弟』を最後に、サイレント映画の時代のうちに引退した[1]。
第二次世界大戦終結後、1948年(昭和23年)に、溝口健二監督の『夜の女たち』、小坂哲人監督の『緑なき島』に出演している。1960年(昭和35年)3月25日、夫の南光明と死別した[4]。
おもなフィルモグラフィ
編集- 『鎌腹』 : 監督マキノ省三、1925年 - 「大林静子」名義でデビュー
- 『剣かたばみ』 : 監督沼田紅緑、1925年
- 『真人間』 : 監督富沢進郎、1926年
- 『裁かるゝ者』 : 監督勝見正義、1926年
- 『花嵐』 : 監督村田正雄、1926年
- 『村に来た呑気者』 : 監督中根龍太郎、1926年 - 「大林梅子」に改名
- 『メリケン物語』 : 監督富沢進郎、1926年
- 『週間苦行』 : 監督マキノ正博、1927年
- 『文七元結』 : 監督勝見正義、1927年
- 『任侠二刀流』第一篇・第二篇・終篇 : 監督高見貞衛、1927年 - 1928年
- 『忠魂義烈 実録忠臣蔵』 : 監督マキノ省三、1928年
- 『新版大岡政談』前篇・中篇 : 監督二川文太郎、1928年
- 『賢い馬鹿』 : 監督川浪良太、1928年
- 『骨肉』 : 監督二川文太郎、1928年
- 『浪人街 第一話 美しき獲物』 : 監督マキノ正博、1928年
- 『浪人街 第二話 楽屋風呂 第一篇』 : 監督マキノ正博、1929年
- 『浪人街 第二話 楽屋風呂 解決篇』 : 監督マキノ正博、1929年
- 『国定忠次の遺児』 : 監督二川文太郎、1929年
- 『腹の立つ忠臣蔵』 : 監督マキノ正博・久保為義、1930年
- 『破恋痴外道』 : 監督二川文太郎、1931年
註
編集外部リンク
編集- Umeko Obayashi - IMDb
- 大林梅子 - 日本映画データベース
- 大林梅子 - KINENOTE
- 大林梅子 - allcinema