大橋(おおはし)は島根県道261号母衣町雑賀町線上にある大橋川に架かるで、日本百名橋に選ばれた。松江大橋とも呼ばれる。

大橋
基本情報
日本の旗 日本
所在地 島根県松江市
交差物件 大橋川
建設 1937年(現橋)
座標 北緯35度28分4.3秒 東経133度3分18.3秒 / 北緯35.467861度 東経133.055083度 / 35.467861; 133.055083
構造諸元
形式 鋼ゲルバー桁
材料 鉄筋コンクリート
全長 134m
11m
最大支間長 30m
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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橋の位置
橋の位置
橋の位置
大橋の袂、大庭の石

概要 編集

今日ある橋は17代目にあたり、そのデザインは内藤伸が関わっている。1935年着工、1937年竣工。

工事中の1936年9月、この橋の現場監督である島根県技師の深田清が橋脚ケーソン内への落下物で事故死したことを追悼し、彼の胸像が第2橋脚に埋められている。また、初代の橋においては源助の人柱伝説があり、橋の南詰(源助公園)には2人の記念碑がある。

歴史 編集

大山寺縁起によると、南北朝時代には当地に白潟橋という橋が架かっていたとされる。関ヶ原の戦いのころには、カラカラ橋という竹の橋が架かっていた。1607年堀尾吉晴松江城建築のために架橋工事を始め、翌年、初代にあたる153mの木の橋が完成する。北の末次と南の白潟の間にある唯一の橋として使われ、他の所属の船は南詰の渡海場(船着き場周辺)で必ず荷物を降ろさなければならなかった。

京極忠高が架け替えた(1637年)後、3代目(1660年)には元明、4代目(1685年)には玉大、5代目(1709年)には蓮台と名付けられた。14代目(1847年)では、正式名においても大橋となり、小泉八雲は「毒をもたないムカデのよう『知られざる日本の面影』」と表現した。15代目(1891年)では、近代的な鉄製トラス橋となった。16代目(1911年、鋼桁橋)完成の翌年、橋の北詰にはこの地方では初となる電信局が開設された。1929年(昭和4年)12月29日、発動機船が橋脚に衝突して床板が落下[1]1934年(昭和9年)3月16日にも同様の事故があり橋の中央部が陥落した[2]1937年(昭和12年)に今日ある橋が架けられた。

脚注 編集

  1. ^ 通行は新大橋だけに、自動車など制限『山陰新聞』昭和9年3月17日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p287 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. ^ 松江大橋に機船が衝突、中央部陥落『山陰新聞』昭和9年3月17日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p287)

参考文献 編集

  • 松村博『日本百名橋』鹿島出版会
  • 松江歴史館『雲州松江の歴史をひもとく 松江歴史館展示案内』[販売]ハーベスト出版
  • 寺田甫(島根県土木課長). “土木画報 1937年1月号” (PDF). 松江大橋改築工事. p. 42-46. 2014年9月2日閲覧。

関連項目 編集