寂照

平安時代中期の僧・文人。図書頭・三河守、従五位下、蔵人、徳明博士。出家。山村氏の祖
大江定基から転送)

寂照(じゃくしょう、応和2年(962年)頃? - 景祐元年(1034年))は、平安時代中期の天台宗文人参議大江斉光の子。俗名は大江定基(おおえ の さだもと)。寂昭・三河入道・三河聖・円通大師とも称される。

経歴 編集

文章・和歌に秀で図書頭三河守を歴任、従五位下に至る。

三河守として赴任する際、元の妻と離縁し、別の女性を任国に連れて行ったが、任国でこの女性[1]が亡くなったことから、永延2年(988年)、寂心(出家後の慶滋保胤)のもとで出家し叡山三千坊の一つ如意輪寺に住んだ。その後横川源信に天台教学を、仁海密教を学んだ。

 
寂照供養塔(豊川市西明寺)

長保4年6月18日、入のため旅立つ[2]。長保5年・咸平6年(1003年)渡海し、蘇州の僧録司に任じられ、皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜った。また、天台山知礼から源信の天台宗疑問27条への回答とその解釈をえた。日本へ帰国しようとしたが、三司使の丁謂(ていい)の要請により、蘇州呉門寺にとどまった。その後、日本に帰国する事がないまま杭州で没した。豊川市西明寺に供養塔がある。

官暦 編集

子孫 編集

子に香基がいたとされる。また、定基の後裔良道は近江国山村郷に住み山村氏を称した。

説話 編集

  • 定基が三河守として任国に連れて行った女が亡くなった際、悲しみの余り、しばらく埋葬せずに、女の亡骸を抱いて臥していた。数日後、定基が女の口を吸うと、ひどい死臭がした。さすが定基も耐えられず、女に対して疎ましく思う気持ちが起こり、ようやく女を埋葬した。その後定基は「この世はつらく苦しいものだ」と、発心を起こしたという[4]
  • 出家した寂照が、都で乞食をしていたところ、離縁した妻に会い、元妻に「『私を捨てた報いで、このように(落ちぶれた姿に)なれ』と思っていたが、この通り見届けることができたことよ」と辱めを受けたが、逆に寂照は「このにより必ず仏心を得られるであろう」と手をすりあわせて喜んだという。[4][5]

寂照については、幸田露伴『連環記』にも採りあげられている。

脚注 編集

  1. ^ から連れて行った女性(『今昔物語集』)、赤坂宿遊女力寿(『源平盛衰記』七、『三国伝記』十一)、の2つの説がある。『道済集』に、参川入道(寂照)が任地に連れてきた女性が亡くなった後に、都の姑の所に行き、再び任地に戻った際に詠んだ和歌が記されていることから、京から連れて行った女性の説が正しいと考えられている。(竹鼻績『今鏡(下)』講談社学術文庫、1984年)
  2. ^ 小記目録』
  3. ^ a b 『小右記』天元5年正月10日、5月8日
  4. ^ a b 『今昔物語集』19巻2話
  5. ^ 今鏡』第9 348段

関連項目 編集