大沢氏(おおさわし)は、武家華族士族だった日本氏族藤原北家持明院流の一族と伝わる遠江国堀江の豪族で今川氏を経て徳川氏に仕え、江戸時代には高家旗本として続き、維新後には石高偽装して堀江藩主となり一時的に華族に列するも偽装発覚後士族に降格させられた[1]

大沢氏
家紋
本姓 藤原北家持明院
家祖 大沢基久
種別 武家華族士族
出身地 遠江国敷知郡堀江
主な根拠地 同上
著名な人物 大沢基胤
大沢基宿
大沢基寿
支流、分家 大沢基哲家等
凡例 / Category:日本の氏族

歴史 編集

戦国時代以前 編集

藤原北家持明院流の一族と伝わり、基秀が貞治年間(1362年-1368年)に遠江国敷知郡堀江に移住して堀江城を築城し、その息子の基久の代に基秀の領地だった丹波国多紀郡大沢から大沢の姓を称するようになったと伝えられる[1]戦国時代には今川氏に仕えていたが、基胤の代の永禄12年(1569年)に遠江に侵攻してきた徳川家康に降伏して服属[1]

江戸時代 編集

基胤の子基宿は堀江1550石を領する幕府旗本となり、朝幕間のやり取りを担当する最初の高家の役割を果たした。以降大沢家は江戸時代を通じて高家旗本として続く。その子基重の代に2550石に加増される[1]。基重の三男である基哲徳川家綱に仕えて長崎奉行を勤め、2600石の一般旗本の大沢家の祖となっている。これ以外にも大沢家には分家の旗本が多かった[1]

大沢宗家は基隆の代の宝永2年(1705年)に1000石の加増を受けて都合3550石を領し、以降明治維新までこの表高だった(幕末時の実高は5500石だったという)[1]

明治以降 編集

明治元年(1868年)8月、朝臣に転じていた当時の当主大沢基寿(幕末時には従四位下侍従右京大夫の武家官位を持つ高家肝入だった)は、浜名湖の開墾予定地を開墾地と偽って都合1万6石になったとする諸侯昇格請願を政府に提出した。本家筋の持明院家からも大沢家の諸侯昇格請願が出されたことでこの請願は許可され、大沢家は堀江藩を立藩して諸侯に列することになり[2][1]、明治2年(1869年)6月には華族にも列した[2]

版籍奉還で堀江藩知事になったのを経て明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで藩知事を務めた[2]。しかし廃藩置県時の調査で浜名湖を開墾地と偽った石高偽装が発覚[1]。大沢家は「浜名湖からは魚が取れる」と弁明したものの、認められず、基寿は士族降格・従四位下の位階褫奪のうえ1年の禁錮刑に処せられ、主だった家臣3人も1年半の禁固刑に処させられた[3](万石事件[1])。

明治17年(1884年)に施行された華族令華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案では元高家は男爵に含まれており、大沢家も男爵家の候補として挙げられていたが、最終的な『叙爵内規』では元高家は対象外となったため結局大沢家は士族のままだった[2]

歴代当主 編集

堀江大沢氏以外の大沢氏 編集

  • 公家持明院基時の子基貫は江戸に下向して大沢と改姓して幕臣となり、1709年(宝永6年)に奥高家となった。上記の大沢家と別に600石の高家として続いた[1]。維新後は士族。明治17年(1884年)に施行された華族令華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案では元高家は男爵に含まれており、この大沢家も男爵家の候補として挙げられていたが、最終的な『叙爵内規』では元高家は対象外となったため結局同家は士族のままだった[4]

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j 森岡浩 2012, p. 111.
  2. ^ a b c d 松田敬之 2015, p. 156.
  3. ^ 浅見雅男 1994, p. 39.
  4. ^ 松田敬之 2015, p. 157.

参考文献 編集

  • 森岡浩『日本名門・名家大辞典』東京堂出版、2012年(平成24年)。ISBN 978-4490108217 
  • 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724 
  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。