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樺太・大泊郡の位置(1.大泊町 2.千歳村 3.深海村 4.長浜村 5.遠淵村 6.知床村 7.富内村 水色:後に他郡から編入された地域)

大泊郡(おおとまりぐん)は、日本の領有下において樺太に存在した

以下の1町6村を含んだ。

当該地域の領有権に関しては樺太の項目を参照。

目次

歴史編集

郡発足までの沿革編集

鎌倉時代の文献『諏訪大明神絵詞』によると、樺太南部に住む唐子と呼ばれる蝦夷蝦夷管領安東氏が統括。唐子は後の西蝦夷地に相当する北海道日本海側や北海岸および樺太に居住していた。室町時代には、唐子の乙名が安東氏の代官、武田信広に銅雀台瓦硯を献じその配下になったという。

江戸時代になると、西蝦夷地に属し慶長8年(1603年宗谷に置かれた役宅が樺太を管轄、1679年延宝7年)松前藩穴陣屋久春古丹大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。貞享2年(1685年)になると 宗谷場所に含まれた。 宝暦2年(1752年)ころシラヌシ(本斗郡好仁村白主)にて交易が始まり、寛政2年(1790年松前藩が樺太商場(場所)を設置、幕府は勤番所を置く。南端の本斗郡好仁村白主に藩の出先機関や交易の中心としての機能を備えた運上屋では、撫育政策としてオムシャなども行われた(江戸時代の日本の人口統計も参照)。場所請負人は阿部屋村山家寛政12年(1800年)松前藩、カラフト場所を直営とした。文化4年(1807年)発生した文化露寇が元となり、西蝦夷地が上知され、これに含まれる樺太も公議御料幕府直轄領)となった(〜1821年第一次幕領期)。松田伝十郎の改革[1]後、山丹交易は幕府直営とし幕吏立会いのもと白主会所のみで行われるようになる。このとき山丹人に期限を伝え、蝦夷(アイヌ)の支払えない負債を幕府が立替え救済措置を講じている。それまでクシュンコタン(大泊町楠渓町)の運上屋にはオロッコたちも姿を見せ交易していたが、以後、シラヌシ(本斗郡好仁村白主)で交易することとなった。

文化6年(1809年)西蝦夷地から樺太が分立、クシュンコタン(大泊町楠渓町)に出張陣屋を築き津軽藩会津藩(文化5年)などが交代で樺太警固を担当した。栖原家伊達家と共同で北蝦夷地(文化6年6月、樺太と改称)場所を請負い[2]、幕命により樺太の久春古丹(大泊町楠渓)~宗谷間に定期航路を開設し500 石以上の帆船2艘が就航、松前陸奥三厩の間にも定期航路を開設した。また、亜庭湾岸にヒシヤサン(留多加郡能登呂村毘沙讃)をはじめ、七か所に通行屋(即ち旅宿所)を設けていた。また、漁場の状況については北海道におけるニシン漁史も参照されたい。

○アニワ湾漁場(西方より順次記載)文化6年(1809年)栖原家七代角兵衛信義時代の漁場名[3]

  • 千歳村・・・シュシュヤ(貝塚)、トマリオンナイ(古江、三ノ沢)、チナイボ(杜門、二ノ沢)、ウシュンナイ(一ノ沢の北)、ウンラ(雲羅、一ノ沢)
  • 大泊町・・・ハツコトマリ(母子泊、山下町)、クシュンコタン(運上屋勤番所等の所在地で大泊町楠渓町)、ホロアントマリ(栄町)、ヲフイトマリ(雄吠泊)
  • 深海村・・・ユウトタンナイ(勇度丹)

文政4年(1821年)松前藩領に復した。 復領後、弘化3年と安政3年(1856年)に松浦武四郎が訪れた。安政3年は箱館奉行所の支配組頭・向山源太夫に同行。

○『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』に嘉永7年(1854年)の状況の一部が記載あり。

  • 大泊町
    • クシュンコタン(久春古丹、楠渓町)・・・運上屋元、蔵数棟、弁天社。大きい船が何艘でも平気で停泊できる。乙名はイツポング
    • バッコトマリ(母子泊、山下町)、ポロアントマリ(栄町)・・・番屋や蔵
  • 千歳村
    • ウンラ(雲羅、千歳村一ノ沢)・・・番屋
    • ウシエンナイ(牛運内)・・・稲荷の社、アイヌの家3軒。
    • エントモヲロ・・・アイヌの家2軒
    • トマリオンナイ(千歳村三ノ沢)・・・アイヌの家3軒
    • チナイボ(千歳村二ノ沢)・・・清水平三郎の持小屋、炭焼き小屋。一反歩余りの畑、ダイコン、ニンジン、ゴボウ、チサなど栽培
    • シュシュヤ(貝塚)・・・アイヌの家8軒

弘化3年、武四郎は本道(大泊中知床岬線の前身)で長浜方面へ向かった後、トンナイチャ越えで東浦(東岸)に抜けている。

○北蝦夷餘誌(安政3年、1856年の状況の一部)

  • 大泊町
    • クシュンコタン・・・勤番所、アイヌの家4軒。役土人[4]惣乙名・ヘンカクリや惣小使・ツクニウらの名が見える。

幕末の状況について、「北海道歴検図」[5]のカラフトの部分の絵図と松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等による[6]と、クシュンコタン(大泊町楠渓町)の3カ所に会所と役宅が描かれ、安政4年(1857)までは、会所・運上屋に役人が居住し人数が増加したため、クシュンコタンに2練の役宅を新設、安政5年8月に完成した。また、箱館奉行はオランダ式のストーブを作成、安政3年の冬、クシュンコタンに鉄製のストーブが7 器配置されたが、新築した越年用の家屋は室内が暖かく、結局西浦のクシュンナイ(久春内)に4機、東浦のマーヌイ(真縫)に3機が送られた[7]。軍事施設では、クシュンコタンに大砲4基が設置された台場1カ所のみ存在。

亜庭湾沿岸部では新場西能登呂岬線大泊国境線(シュシュヤ越)、大泊中知床岬線(本道)の前身に相当する道が通じ、通行屋・小休所では、「通行屋」8カ所と、その途中に「小休所」3カ所が存在。松浦武四郎は、弘化3年にエンルヲロ(千歳)とクシュンコタン(大泊町楠渓町)、安政3年はクシュンコタンに宿泊。

幕末当時の宗教施設や漁場については下記のとおり。

○アニワ湾岸の神社[8][9](西方より順次記載)

  • 千歳村・・・泊恩内(三ノ沢)○(社名不明)、ウシユナイ・牛運内(一ノ沢の北)弁天社、ウンラ・雲羅(一ノ沢)弁天社
  • 大泊町・・・クシュンコタン(運上屋勤番所等の所在地で大泊町楠渓町)弁天社・竜神・金比羅社・稲荷の社・金勢の社など6社、ホロアントマリ(栄町)弁天社、エントモカヲマナイ(円留)、ヲフヱ(ユ)トマリ・小冬泊・オホヘドマリ(雄吠泊)弁天社

※クシュンコタンには宗谷の厳島神社の分社も鎮座していた。数ある神社の中でも、弁天社は、あかがねの鳥居が美しかったという。

○アニワ湾漁場(西方より順次記載)慶応3年12月 栖原家十代寧幹時代の樺太漁場

  • 千歳村・・・トマリオンナイ(三ノ沢)、ウシュンナイ(一ノ沢の北)、ウンラ(一ノ沢)
  • 大泊町・・・ハツコトマリ(母子泊、山下町)、クシュンコタン(楠渓町)、ホロアントマリ(栄町)、ヲフイトマリ(雄吠泊)
  • 深海村・・・ユウトタンナイ(勇度丹)

※ウンラには番屋(漁番屋)が存在。

幕末の樺太警固(第二次幕領期)

安政2年(1855年日露和親条約で国境が未確定・現状維持とされ、樺太を含む蝦夷地が再び公議御料となり、大泊郡域(楠渓領)は秋田藩がクシュンコタン(大泊町楠渓町)に出張陣屋を築き樺太警固を行った[10]。冬季は漁場の番屋に詰める番人を足軽とし、武装化して警固を行った。万延元年(1860年)樺太警固は仙台会津・秋田・庄内の4藩となるが、文久3年(1863年)以降は仙台・秋田・庄内の3藩体制となる。慶応3年(1867年樺太島仮規則で樺太全島が日露雑居地とされた。

大政奉還後

慶応4年(1868年)4月12日、箱館裁判所(閏4月24日に箱館府と改称)の管轄となり、6月末、岡本監輔、箱館府の行政官としてクシュンコタン(大泊町楠渓)に着任し公議所(裁判所)を置いた。 亜庭湾岸のベシャニ(小実、長浜)、東浦の東トンナイ(富内)・栄浜(もとシュシュウシナイ)・シララオロ(白浦)、西浦のシラヌシ(自主)・西トンナイ(真岡)・クシュンナイ(久春内)・ウショロ(鵜城)の八箇所に官員を派遣し、王政復古を布告して出張所を設けた。 明治2年(1869年)北蝦夷地を樺太州(国)と改称。開拓使直轄領となった。この年、丸山作楽谷元道之が樺太出張の命を受け着任。 明治3年(1870年)樺太開拓使領となったが、明治4年(1871年)開拓使直轄領に復した。同年8月29日、廃藩置県を迎える。 開拓使は樺太の治安の維持のため、明治5年青森県出身の羅卒(警察官)10名を樺太に派遣[11]。 翌年の函泊出火を受け、荘内出身の旧士族の羅卒16人を増派したが、その目的は主にロシア兵や逃亡したロシア徒刑囚の暴行への対処だったという。 羅卒たちは全員クシュンコタンに駐在し、ススヤ(千歳村貝塚)からポロアントマリ(大泊町栄町)までの区域を昼夜巡回。しかし武器は警棒のみであり被傷事件も発生。立田革が樺太問題の対応に当たった。明治8年(1875年)、樺太千島交換条約によりロシア領となったが、明治38年(1905年ポーツマス条約締結により日本領に復帰。樺太民政署を経て明治40年(1907年4月1日内務省の下部組織樺太庁の管轄となった。

ロシアの侵出とロシア領時代

幕末の1853年嘉永6年)秋、ネヴェリスコイは久春古丹にムラヴィヨフ哨所()を築き、樺太全島の領有を宣言(ロシア軍艦対馬占領事件帝国主義南下政策も参照)。この事件がロシアの南樺太侵出の始まりである。しかし、1854年(嘉永7年)5月18日クリミア戦争の影響のため、ロシア船4隻が来航し駐留のロシア兵を乗せクシュンコタン(久春古丹)から撤収。明治2年6月24日に、日本の本拠地クシュンコタンの北隣・ハツコトマリ(画泊)に50人ほどのロシア兵が上陸、日本側の抗議を無視し陣営の構築を開始。この年以降、ロシアは流刑囚男女120人を皮切りに囚人を送り込み始めた。明治5年(1872年)東シベリア第4正規大隊の本部がトーフツ(長浜郡遠淵)から函泊に移転、ロシア軍の拠点コルサコフ哨所が作られた。そこには歩兵3個中隊と山砲1個小隊約640名が駐屯するようになる。 1875年の樺太千島交換条約締結後、ロシア領時代の1890年(明治23年)、作家のアントン・チェーホフが、流刑地となっていた樺太を調査。主に漁業を営む現地の日本人島民[12]とも交流。彼は後に報告記「サハリン島」を執筆した。

郡発足以降の沿革編集

参考文献編集

関連項目編集