大滝亀代司
大滝 亀代司(大瀧、おおたき きよし、1898年(明治31年)10月25日[1] - 1977年(昭和52年)8月31日[2])は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、白鷹町名誉町民[3]。
経歴編集
山形県[2]西置賜郡蚕桑村大字山口(現白鷹町大字山口[3])で大滝利久馬の二男として生まれる[3]。苦学して日本大学法学部を卒業[3]。1923年(大正12年)弁護士試験に合格した[2]。
東京で弁護士を開業[3]。全日本弁護士会理事、第一東京弁護士会常議員となる[2]。また、大興社取締役社長を務めた[2]。
1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に山形県全県区から日本自由党公認で出馬して次点で落選[4]。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に山形県第1区から出馬して当選し[5]、衆議院議員に1期在任した[2]。この間、日本自由党政調会予算副委員長などを務めた[2]。炭鉱国管疑獄では、1948年(昭和23年)衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問されている[6]。その後、第24回、第25回、第27回、第28回総選挙に立候補したがいずれも落選した[7]。
逸話編集
- 白鷹町に青少年育成のため町立図書館設立基金として多額の寄付を行った[3]。
- 1948年、寿産院事件の刑事裁判において、犯人の一人が1944年に大阪地裁で詐欺罪により実刑判決を受けた後、収監を引き延ばすための運動費として、大滝に35,000円を払っていた事が露呈した[8][9][10]。これにより、日弁連は弁護士の名刺に、現職以外の官歴(「元大審院判事」など)の表示を禁止した[11]。その後、1949年8月29日付で大滝の弁護士名簿からの取消請求と、同名簿への登録請求が同時に行われている[12]。また、大滝への懲戒処分の是非を巡って、第一東京弁護士会は複数の会派(派閥)へと分裂に至った[13]。
脚注編集
- ^ 『山形県年鑑 1963年版』449頁。
- ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』130頁。
- ^ a b c d e f 『山形県大百科事典』105頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第22回』167頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第23回』65頁。
- ^ 『戦後政治裁判史録 1』336-337頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』41-42頁。
- ^ 朝日新聞1948年6月8日朝刊2面
- ^ 毎日新聞1948年6月8日朝刊2面
- ^ 朝日新聞1948年7月10日朝刊2面
- ^ 読売新聞1948年6月19日朝刊2面
- ^ 『官報』第6909号印刷庁、1950年1月25日、195面。NDLJP:2963453
- ^ 伊藤歩 (2015年6月24日). “弁護士界の"細かすぎる派閥"はこう生まれた”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. p. 2. 2015年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月11日閲覧。
参考文献編集
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第22回』衆議院事務局、1950年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
- 山形新聞編集局企画部編『山形県年鑑 1963年版』山形新聞社、1963年。
- 田中二郎、佐藤功、野村二郎編『戦後政治裁判史録 1』第一法規出版、1980年。
- 山形放送株式会社山形県大百科事典事務局編『山形県大百科事典』山形放送、1983年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。