大群獣ネズラ

大群獣ネズラ』(だいぐんじゅうネズラ)は、1964年(昭和39年)の正月興行で公開予定だった大映製作の日本の特撮映画作品。モノクロ、スタンダード。

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ストーリー編集

昭和39年、東京都の南端・笹島にある「三上宇宙食糧研究所」の三上博士と助手の大久保らが、超高単位カロリーを持った、画期的な宇宙食の培養に成功した。ところがこの宇宙食「S602」を食べた島のネズミが突然変異し、巨大化。島の村落を襲って人間や牛馬を喰い尽して全滅させた。強大化したネズミたちは三上博士らの調査の先を越して海を渡って東京に上陸し、銀座裏の下水道に巣食って増殖し、東京を襲い始めた。

猛威をふるうネズラを前に、三上博士はネズラを共食いさせて「マンモス・ネズラ」としてさらに巨大化させ、その共倒れを図る。やがて巨大化したマンモス・ネズラは、ネズラと争い始めた。ところが三上博士の協力者と思われたシュミット博士が国際諜報員の正体を現し、特殊宇宙食の発明の強奪を図る…[1]

解説編集

本作は「ガメラシリーズ」以前に企画制作されており、『大映特撮怪獣映画』の第1弾となるはずの作品であった。大映は東宝の『ゴジラ』に対抗して、1960年代初頭に自社による怪獣映画製作を企画していた。 大映東京撮影所では1949年(昭和24年)に『虹男』(牛原虚彦監督)、1956年(昭和31年)に『宇宙人東京に現わる』(島耕二監督)などの特撮映画を制作した実績もあり、1963年(昭和38年)に公開されたヒッチコック監督の海外パニック映画『』の大ヒットによるモンスターパニック人気が決め手となって、「大映怪獣映画の第1弾」としてこの『大群獣ネズラ』は企画されることとなった。

小嶋伸介によると、企画発案者の特撮監督築地米三郎は、「週刊誌で瀬戸内海の島でのネズミの大量発生による被害が報じられていたこと[2]や、上記の『』に影響を受けた」と語っていたそうである。こうして築地の発案を基に、長谷川公之によって脚本が書き上げられた。笹島の村落全滅を描いた場面では、島民の「ゴジラでもいるんでねえか」というセリフが登場する。

大映も初のオリジナル怪獣映画作品としてこれに力を入れ、当初はぬいぐるみによる撮影が予定されていた。しかし、のちにガメラを造ることとなる造形スタッフの八木正夫が制作依頼を断ったため、高山良策が担当するも人間が入るものでは思うような動きが撮れず、企画は「生きたネズミを使う」という方向に修正された。

映画企画としても、この「生きたネズミをそのまま使った接写映像を合成する特撮技法を用いる」という日本初の試みは、国内外の怪獣映画で「ぬいぐるみ方式」や「人形アニメ」が主流であったなか、当時としても斬新なものであり、低予算でかつリアルな映像を製作することのできる、画期的なものと思われた[3]。主役であるネズミの確保については、各大映系列の映画館で「一匹50円」で募集が行われ、映画館には多数のネズミが持ち込まれた。ネズミの受取収集は「大映正月作品 大群獣ネズラ護送中」と掲げたトラックが宣伝も兼ねて映画館を周って行った。

撮影は1963年(昭和38年)秋に、まず特撮から始められた。八木宏(八木正夫の実子)が港区の高速道路の写真を撮り、これを基に高速道路付近の市街ミニチュアが作られた。ネズラに襲われる3寸大の人間のミニチュア、3尺大の戦車のミニチュアも使用された。この撮影現場には、二年後に『大怪獣ガメラ』を監督する湯浅憲明も立ち会っている[4]。しかし、「生きたネズミを使う」というネズラの撮影は最初から困難の連続だった。当初、「ネズミは電気に弱い」ということで、高速道路のミニチュアに電気プレートを敷き、電気を流して暴れさせようとしたのだが、ネズミは固まってしまって動いてくれず、また照明の当たる明るい場所にはネズミが避けてしまって近寄らないなど、思うようなカットはほとんど撮れなかったという。

さらに、ネズミの大量飼育からくるノミダニシラミなどの大量発生という決定的な問題がスタッフを襲った。撮影現場には常にネズミダニと殺虫剤が埃となって舞い、撮影スタッフはガスマスクを装着して撮影に挑まなければならなかった。肝心のネズミ達も杜撰な衛生管理の問題で死んでしまったり、遂には共食いや逃げ出す、という最悪の状況となるまで、さほど時間はかからなかった。加えて撮影所や、ネズミを募集した大映系映画館の近隣住民からの苦情も殺到、果ては保健所からの警告まで届き、ついには組合問題にまで発展、撮影の続行が不可能となったために制作は2000フィート(約20分)撮影されたところで制作は中止された。組合委員長で、この映画に反対の立場であった特撮チーフ助監督の小嶋伸介は、この顛末により大映を退社。ピープロのスタッフとなった[5]

最終的に保健所の指示で、大量のネズミを処分することとなったが、「ガソリンをかけての焼却処分風景は、本編の撮影よりも迫力があった」という関係者の話も残っている。撮影で死んだネズミのため、スタッフは撮影所そばの寺社で供養を行っている。

1980年代のTV懐古番組でネズラの動く映像が数カット放送されたことがある。正月用の予告編フィルムは湯浅憲明監督が編集した。この予告編フィルムは徳間大映が角川大映へ資本変更される際に破棄されたため、結果的に断片的なスチル写真のみが残されているだけである。

平山亨によれば、美術スタッフの三上陸男はネズミダニによるダニアレルギーで、瀕死の入院にまで至ったという。この経験からネズミアレルギーになってしまい、のちに造型会社エキスプロダクションに参加して請けたテレビドラマ『仮面ライダー』などのヒーロー番組では、ネズミの怪人だけは嫌がって関わらなかった[6]

スタッフ編集

撮影台本では、製作の永田を始め、撮影の渡辺、特殊撮影の築地らの名が、また別記で「(特撮スタッフ)」として撮影の金子や進行の川村が記名されている。本編班の「照明」、「音楽」、「編集」、「製作主任」の項目は無記名となっている。

特撮スタッフ

ネズラ編集

「ネズラ」とは、元々は普通のネズミが宇宙食のために仔牛大となって大量発生したもの。水に落ちると溺れ死ぬ。このシーンでは実際にネズミを溺死させて撮影が行われている。

  • 身長:2メートル
  • 体重:80キログラム(宣伝資料より)

上述したように「生きたネズミ」が公募によって集められたほか、研究用のモルモットも大量に投入された。上半身部分に人間が入る3尺大のぬいぐるみが高山良策によって制作されたほか、小型のギニョール、3尺大のリモコン模型も制作された。

ネズラの声のSE(効果音)は『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』での洞窟のコウモリの声に使われた。その後、1991年(平成3年)にLD『ガメラ永久保存化計画』の特典映像として製作された『ガメラ対大邪獣ガラシャープ』の新怪獣「ガラシャープ」の声にも使われている。また2003年に玩具会社「イワクラ」から、ネズラの食玩フィギュアが商品化販売されたことがある。

脚注編集

  1. ^ 『大群獣ネズラ』撮影台本(大映東京撮影所・1963年9月30日付)
  2. ^ ねずみ騒動も参照。
  3. ^ ただし映画界で先例がなかったわけではなく、ハリウッドにはトカゲイグアナに角などを着けて恐竜として撮影した「トカゲ特撮」という手法があり、日本でも、生きたタコを使って「大ダコ」を撮影した東宝映画『キングコング対ゴジラ』などの先例がある
  4. ^ 『大怪獣ガメラ秘蔵写真集』(徳間書店)
  5. ^ 『スペクトルマンVSライオン丸 うしおそうじとピープロの時代』(太田出版)
  6. ^ 平山亨 『仮面ライダー名人列伝』、1998年、風塵社、153-154頁。

参考文献編集

  • 『ファンタスティックコレクションNO13 世紀の大怪獣ガメラ』(朝日ソノラマ)
  • 『ガメラ画報』(竹書房)
  • 『大怪獣ガメラ秘蔵写真集』(徳間書店)
  • 『大群獣ネズラ』撮影台本(大映東京撮影所・1963年9月30日付発行)

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