大虔晃
大虔晃(だいけんこう、テ・ゴンファン、? - 871年6月)は、第12代渤海王(在位:857年2月 - 871年6月)。姓は大(だい、テ)、諱は虔晃(けんこう、ゴンファン)。渤海王朝の10代王・大仁秀の太子であった、大新徳の次男であり、11代王・大彝震(テ・イジン)の弟。当時の内治に関する記録は残っていない。ただ唐と日本との外治に関する記録だけが残っているだけだ。唐との交渉は唐内部の農民暴動に関して頻繁に無かったのに対し、日本との交渉は続いた。858年の冬、政堂省左允・烏孝愼(オ・ヒョシン)など104人を日本に送り、暦の『長慶宣明暦経』を日本に送った。860年にも李居正(イ・ゴジョン)など105人を日本に送ったが、その目的は主に新羅に対する牽制と経済的利害関係だったと思われる。ところが841年の渤海で日本に送った牒には大虔晃を『中台親公大内相殿中令』の官職として記録している。これを根拠に左右相の上座である正当性の大内相を『文苑英華』に登場する副王と結びつけ、大虔晃を父王と捉えたりもする。しかし、父王という用語は『新唐書』と『文苑英華』でしか見えない。『文苑英華』の記録は前後を調べる時、渤海の大彝震と唐の文宗が同時に存在していた830年から840年の間の記録であり、『新唐書』の著作となった『渤海国記』の作成時点等を考えると、834年、即ち、大彝震が在位初期の記録なので、この時の副王は大彝震の長子を指したものと思われる。元々渤海の王位継承も嫡子孫継承が原則だったが、適長者がいない場合は弟が王位を継承する場合もあった。父王と表現していた大彝震の長者がいたが、これが早く死亡した事により、当時国政の実権を掌握していた、大彝震の弟の大虔晃が王位を継承し、渤海の国王へと即位したとする。871年6月に在位13年に崩御した。大彝震が死んでから息子達が王位に就かなければならないのが正常だが、弟の大虔晃が王位に就いたという点で疑問を残す。勿論大彝震の息子達が皆夭折した事なら話は変わるが、息子が一人二人は違うと思われるが、すぐに大彝震の記録に出てくる息子だけを見ても4人であり、使臣に行ったという事は長寿した事を意味する。少なくとも10代後半~20代前半と見られるが記録が無い為、疑問点を元に推測するだけだ。一説ではこれにより、政変があったのではないかと推測する事もある。
元王 大虔晃 | |
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渤海 | |
第12代国王 | |
王朝 | 渤海 |
在位期間 | 857年2月 - 871年6月 |
都城 | 上京龍泉府 |
姓・諱 | 大虔晃(テ・ゴンファン) |
字 | 不詳 |
小字 | 不詳 |
号 | 不詳 |
諡号 |
元王 安王 |
廟号 | 元王 |
生年 | 生年月日不詳 |
没年 | 871年6月 |
父 | 大新徳 |
母 | 姓名不詳 |
后妃 | 姓名不詳 |
陵墓 | 埋葬地不詳 |
元号 | 不詳 |
生涯編集
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脚注編集
出典編集
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