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大谷光瑩

日本の旧華族、仏教者

大谷 光瑩(おおたに こうえい)は、明治から大正時代にかけての浄土真宗法名は「現如」(げんにょ)。東本願寺第二十二代法主[3]真宗大谷派管長。伯爵

大谷光瑩(現如)
嘉永5年7月27日[1]1852年9月10日[2] ) -
大正12年(1923年2月8日[2]
Koei Otani.jpg
幼名 光養麿
法名 現如
愚邱
院号 荘厳光院
光瑩
尊称 現如上人
没地 東京都千代田区霞が関
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
大谷祖廟、北海御廟

生涯編集

日付は、の正確性、著作との整合を保つ為、明治5年12月2日1872年12月31日)までは、天保暦表示。明治6年1月1日(1873年1月1日[2] )からは、グレゴリオ暦表示とする(誕生年月日を除く)。また本山は、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。

  • 嘉永5年(1852年7月27日東本願寺第二十一代 嚴如(大谷光勝)の第五子(四男)として誕生。
  • 明治3年(1870年2月10日、東本願寺が明治新政府から請け負った北海道開拓事業の責任者として、百数十名の随員を従えて北海道へ渡る。その道中は、教化をしながら工事費などの寄付を募り、また北海道への移民勧誘をおこなう。
  • 同年7月7日、函館に到着する。本願寺道路の建設など開拓を指示し、札幌へ向かい朝廷より下賜された土地を視察する。
  • 明治4年(1871年)9月、その地に布教の拠点として、その地に東本願寺管刹(寺)を建設する。
  • 明治5年(1872年)9月から翌年7月にかけて、ヨーロッパ各国を歴訪し宗教事情を視察、教団の近代化に寄与した。
  • 明治22年(1889年10月7日、父・嚴如(ごんにょ)の隠退により、第二十二代法主に就任。
    • 明治28年(1895年)4月、東本願寺両堂竣工。
  • 明治29年(1896年)6月、北海道開拓事業の功績を受け、伯爵号を授かる。
  • 明治34年(1901年)5月、遊蕩ぶりが宮武外骨の「滑稽新聞」上で風刺の対象となる[4]
  • 明治35年(1902年)12月、300万円を超す負債から財政を立て直すため、井上馨に財政再建を依頼(東本願寺借財整理)。
  • 明治41年(1908年)11月、第2子・彰如(大谷光演)に法主を委譲し、退隠する。院号を「荘厳光院」とする。
  • 大正12年(1923年2月8日、東京霞が関の別邸にて示寂。享年72[5](満70歳没)。
  • 昭和9年(1934年札幌市の北海御廟に分骨される。

栄典・授章・授賞編集

脚注編集

  1. ^ 天保暦
  2. ^ a b c グレゴリオ暦
  3. ^ 正式には「本願寺」。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第二十二代法主」と表記。
  4. ^ 赤瀬川原平、吉野孝雄編 『宮武外骨・滑稽新聞 第壹冊』 筑摩書房、1985年、66頁、ISBN 9784480355010
  5. ^ 数え年
  6. ^ 『官報』第372号「叙任」1884年9月22日。
  7. ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
日本の爵位
先代:
叙爵
伯爵
大谷家真宗大谷派)初代
1896年 - 1908年
次代:
大谷光演