大谷 武一(おおたに ぶいち、1887年明治20年〉5月14日 - 1966年昭和41年〉1月29日)は、大正から昭和期の日本の学校体育指導者。ラジオ体操の考案者の1人[1]ソフトボール競技、ハンドボール競技を日本へと紹介[1]。また、それまで「デッドボール」と呼ばれていた競技を「ドッジボール」に改名、主に学校体育において普及に努めた。ウェイトリフティング競技の普及にも寄与した。日本体育指導者連盟元会長。東京教育大学体育学部初代学部総長兵庫県加西市出身。

略歴 編集

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晩年の大谷は脳動脈硬化症を患い療養していたが、急性肺炎を併発し、1966年1月29日午後11時に自宅にて逝去した[1]葬儀告別式青山斎場にて2月3日午後1時から営まれ、568人が参列、347通の弔電と40個の生花・花輪が寄せられた[1]

人物 編集

一見すると厳しい人物に見えたが、温厚篤実な人で、姫路の母校に帰ったときには多くの人に囲まれた[3]。そのため実家に帰る時間が無くなってしまったが、夜を徹して山越えを含む10里の道を自転車と徒歩で踏破し、父母に会いに行った[3]と談笑を好み、「楽酒の会」を結成して酒を酌み交わしながら仲間と会話を楽しんだという[3]

著作 編集

著書は数十冊に及ぶ[2]

  • 『正常歩』(目黒書店、1941年)
  • 『大谷武一体育選集』(杏林書院体育の科学社、1960年-1967年)

親族 編集

息子の大谷旦は舞踊家で、大谷武一の葬儀で喪主を務めた[1]。孫[4]の大谷勝は「Dr.アミノ」の異名を持ち、アミノバイタルを開発した人物で[5]、大谷武一の故郷・加西市で講演を行ったこともある[4]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 新体育社 1966, p. 139.
  2. ^ a b c d 新体育社 1966, p. 146.
  3. ^ a b c 新体育社 1966, p. 144.
  4. ^ a b 健康福祉まつり”. 加西市健康福祉部福祉企画課 (2015年11月4日). 2019年4月9日閲覧。
  5. ^ 吉崎エイジーニョ (2012年4月4日). “<お勉強> “Dr.アミノ”こと大谷勝東大教授にアミノ酸のイロハの“イ”を聞いてみた”. Sports Graphic Number. 2019年4月9日閲覧。

参考文献 編集

  • 「大谷武一先生のご逝去を悼む」『新体育』第36巻第3号、新体育社、1966年3月、139-146頁。 

関連項目 編集

外部リンク 編集