大野治長
大野 治長(おおの はるなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏の家臣。兄弟に、治房・治胤・治純、子は大野治徳、治安(弥十郎)ほか。官位は従四位下修理大夫。知行15,000石。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 永禄12年(1569年) |
死没 | 慶長20年5月8日(1615年6月4日) |
官位 | 従四位下修理大夫 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼 |
藩 | 摂津国大坂藩 |
氏族 | 大野氏 |
父母 | 父:大野定長(道犬)、母:大蔵卿局 |
兄弟 | 治長、治房、治胤、治純 |
妻 | 南陽院(妙心寺過去帳) |
子 | 治徳(長徳)、治安(弥十郎) |
生涯編集
永禄12年(1569年)、丹後国大野(現在の京丹後市)で生まれた。父は豊臣秀吉の家臣であった大野定長、母は後に淀殿の乳母となる大蔵卿局であり、母の伝手により秀吉に約3,000石の馬廻衆として取り立てられた。天正17年(1589年)に父および母の功績により和泉国佐野(現在の泉佐野市)と丹後国大野合計1万石を道犬と共に与えられ、大野城を拠点として領国を運営した[1]。文禄3年(1594年)の伏見城の普請に携わっている。
秀吉の死後は豊臣秀頼の側近として仕えたが、慶長4年(1599年)の徳川家康暗殺計画事件の首謀者の一人として罪を問われ、下総国に流罪とされる。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に参戦し武功を上げた事で罪を許され、戦後は家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康の書簡をもって豊臣家への使者を務めた後、江戸に戻らずそのまま大坂に残った。
慶長19年(1614年)6月、片桐且元の弟である片桐貞隆と共に家康の口添えで5,000石を秀頼より加増され、その礼として貞隆と駿府にいる家康、次いで江戸の将軍・徳川秀忠を訪ねる。
同年に豊臣氏の家老であった片桐且元が追放されると、豊臣家を主導する立場となる。その後、豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えて大坂冬の陣に至る。治長は豊臣方の中心の一人として籠城戦を指揮し、徳川方から和睦が持ちかけられると、織田有楽斎と共に徳川方との交渉を行った。和睦の条件に従い次男治安(弥十郎)を人質として家康に差し出しているが(後に処刑)、城内では和睦に反対する意見も多く、和睦後の4月9日に闇討ちに遭い負傷した。これは主戦派の弟・治房による襲撃とも言われる。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、紀伊の浅野長晟への攻撃に際し、家臣を紀伊へ潜入させ和歌山城を占領すべく一揆を扇動したが計画は失敗した(紀州一揆)[2]。
天王寺・岡山の戦いでは、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に布陣、秀頼の出馬を待っていたが、戦闘に参加することなく城内に撤退した。
将軍・秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫を使者とし、己の切腹を条件に秀頼母子の助命を願うがかなわず、秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害した。母親・大蔵卿局、長男の治徳も共に自害している。
『春日社司祐範記』は「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」と記している[3]。享年47。
子の弥十郎は、古田織部の子・重広の処刑日と同じ日の慶長20年(1615年)12月27日に、江戸下谷の開禅寺で速水守久の子・出来丸と共に処刑された。
人物編集
淀殿との密通編集
「 | 」 | |
同様の記述は『多聞院日記』や姜沆による『看羊録』にもある。江戸時代の『明良洪範』では秀頼は秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子と記している。
登場する作品編集
- テレビドラマ