大関増公(おおぜき ますきみ)は、江戸時代旗本下野国黒羽藩3代藩主・大関高増の三男。

 
大関増公
時代 江戸時代前期
生誕 寛永18年(1641年
死没 貞享2年7月8日1685年8月7日
別名 亀満、右近、勘右衛門(通称)
戒名 忠厳
墓所 種徳寺松渓院(東京都港区赤坂
幕府 江戸幕府 書院番使番奈良奉行
氏族 大関氏
父母 父:大関高増、母:分部光信
兄弟 増親増栄増公増俊
天野長重
娘(吉田盛昌妻)、養子:増直
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正保3年(1646年)11月12日、父・高増の遺領から下野国芳賀郡の1000石を分与される。承応2年(1653年)3月15日、将軍徳川家綱に拝謁。万治2年(1659年)7月11日に書院番となり、寛文12年(1672年)2月8日より屋敷改の役目を務める。延宝3年(1675年)1月26日に使番となり、天和2年(1682年)1月11日より奈良奉行に移り、大和国式上郡500石を加増される。その時の部下に与力の玉井定時がいる。貞享2年(1685年)7月8日死去、享年45。嗣子が無かったため家禄を没収され、後に元禄14年(1701年)になって大関増直が家跡を相続した[1]

脚注編集

  1. ^ 寛政重修諸家譜』巻第六百五十八