大関 増裕(おおぜき ますひろ)は、江戸時代末期の大名下野国黒羽藩15代藩主。

 
大関増裕
Bakushin.jpg
一番右が大関増裕。他は松平太郎勝海舟稲葉正巳石川重敬、ヴァン・ヴァルケンバーグ(アメリカ公使)、江連堯則外国奉行)。
時代 江戸時代末期
生誕 天保8年12月9日1838年1月4日
死没 慶応3年12月9日1868年1月3日
改名 藤十郎(幼名)→西尾忠徳→大関増裕
戒名 賢璋院殿巍山槐堂大居士
墓所 栃木県大田原市の大雄寺
東京都中野区上高田の功運寺
官位 従五位下肥後[1][2]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜
下野黒羽藩
氏族 西尾家(後期東条吉良氏庶流)→大関氏
父母 父:西尾忠宝、養父:大関増徳
兄弟 男子、男子、増裕
養兄弟:一戸寛土井利与継室大沼盾雄風野光四郎侍子(大関増裕継室)、ほか
正室:大関増儀娘・於鉱
継室:大関増徳養女・侍子
5男6女、養子:増勤
テンプレートを表示

略歴編集

天保8年12月9日(1838年)、遠江国横須賀藩主・西尾忠善の嗣子であった西尾忠宝の三男として生まれる。文久元年(1861年)、大関増徳の養嗣子となり、10月9日に跡を継いだ。文久元年(1861年)11月に江戸幕府14代将軍徳川家茂御目見して12月に従五位下、肥後守に叙任する。

文久2年(1862年)4月に講武所奉行、次いで11月に陸軍奉行に任じられ、幕府の軍制改革に努めるが、病をえて文久3年(1863年)3月15日に辞任した[1]。同年5月、初めての国入りに際し、自らに全権委任することを家臣らに認めさせ、西洋式砲術の導入するなど藩政改革に取り組んだ。慶応元年(1865年)に新設された海軍奉行に任じられ、慶応2年(1866年)8月には若年寄格、慶応3年(1867年)1月19日に若年寄となった[2]。しかし慶応3年(1867年)12月9日、銃猟の際に死亡した。享年31。

子は全て早世していたため、増裕の死は養子が決まるまで秘匿され、増勤が急養子として跡を継いだ。

増裕はまた、作新学院の名前の由来となる藩校作新館を創設した。この校名は勝海舟が名付けたという。

脚注編集

  1. ^ a b 『聞集録』
  2. ^ a b 『慶喜実記』

出典編集

  • 『聞集録』
  • 『慶喜実記』