大阪市立日東小学校

大阪府大阪市にあった小学校

大阪市立日東小学校(おおさかしりつ にっとうしょうがっこう)は、大阪府大阪市浪速区日本橋東三丁目にあった公立小学校

大阪市立日東小学校
大阪市立日東小学校(2014年6月)
地図北緯34度39分29.4秒 東経135度30分30.8秒 / 北緯34.658167度 東経135.508556度 / 34.658167; 135.508556座標: 北緯34度39分29.4秒 東経135度30分30.8秒 / 北緯34.658167度 東経135.508556度 / 34.658167; 135.508556
過去の名称 大阪市天王寺第九尋常小学校
大阪市日東国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大阪市
併合学校 大阪市逢坂国民学校
設立年月日 1924年8月29日
創立記念日 10月9日
閉校年月日 2017年3月31日
共学・別学 男女共学
所在地 556-0006
大阪府大阪市浪速区日本橋東三丁目1番23号
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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1942年に開校した。浪速区の東部・日東地区を校区としていた。地域の学校再編計画により、2017年に3小学校統合で新設された大阪市立浪速小学校(日本橋小中一貫校)に統合される形で閉校となっている。

沿革 編集

地域の児童数増加により、従来の大阪市天王寺第三尋常小学校(1941年大阪市逢坂国民学校)から分離する形で、1924年8月29日に大阪市天王寺第九尋常小学校として開校した。

なお、分離元の天王寺第三尋常小学校は、1907年1月に天王寺第一尋常小学校(現在の大阪市立天王寺小学校)より分離する形で開校している。天王寺第三尋常小学校は、現在の浪速区下寺3丁目17番付近にあった。

1941年には国民学校令により、大阪市日東国民学校へと改称した。1944年には学童疎開が実施されることになり、児童は滋賀県野洲郡中里村(現在の野洲市)へ集団疎開を実施した。また逢坂国民学校の児童は滋賀県栗太郡草津町志津村(以上、現在の草津市)および同郡治田村(現在の栗東市)へ疎開している。

太平洋戦争の戦災は浪速区にも重大な被害を及ぼした。同区では終戦直後の人口が1944年時点と比較して約95%減少し、また地域も焼け野原となった。これに伴い終戦直後の1946年には国民学校の整理・統廃合がおこなわれ、日本橋国民学校・逢坂国民学校の2校が休校して日東国民学校に統合している。

学制改革により1947年には大阪市立日東小学校となった。戦災からの地域復興により、1949年には大阪市立日本橋小学校が再開している。

2010年代には地域で学校再編計画が持ち上がり、日本橋小学校、大阪市立恵美小学校と統合することが決まった。2017年4月1日付で、日本橋中学校の敷地に大阪市立浪速小学校を新設し、施設一体型小中一貫校「大阪市立浪速小学校・日本橋中学校(通称・愛称:日本橋小中一貫校)」へと移行したしたことに伴い、日東小学校など3校は浪速小学校に統合される形で、2017年3月31日付で閉校となっている。

年表 編集

跡地利用構想 編集

閉校後の跡地利用については、大阪市教育委員会が「不登校特例校」(学びの多様化学校)の中学校を設置[1]し、また大阪市立天王寺中学校夜間学級と大阪市立文の里中学校夜間学級を統合する形で夜間学級(夜間中学)を併設する構想を立てた[2][3][4]。新設の中学校は大阪市立心和中学校[1][5]の名称で、2024年度に開校した。

通学区域 編集

  • 大阪市浪速区 下寺2-3丁目、日本橋西2丁目、日本橋東2-3丁目の全域。
  • 大阪市浪速区 日本橋4-5丁目、日本橋西1丁目、敷津東1-3丁目のそれぞれ一部。
卒業生は大阪市立日本橋中学校へ進学していた。

交通 編集

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 不登校特例校の設置”. 大阪市 (2023年3月4日). 2023年3月15日閲覧。
  2. ^ 大阪市教委、24年に「不登校特例校」開校を検討 夜間中学も併設”. 朝日新聞 (2021年11月9日). 2022年3月6日閲覧。
  3. ^ 不登校向けの特例校を大阪に新設へ、夜間中学も併設”. 読売新聞 (2021年11月9日). 2022年3月6日閲覧。
  4. ^ 大阪市の夜間中学2校に統廃合案 不登校特例校新設も”. 産経新聞 (2021年11月9日). 2022年3月6日閲覧。
  5. ^ 大阪市立学校設置条例の一部を改正する条例案” (PDF). 大阪市会(2023年2月22日原案可決) (2023年2月22日). 2023年3月15日閲覧。

外部リンク 編集